家事を人間形成の型と捉えたら?
- 執筆:平田はる香
- 撮影:若菜紘之
- 編集:鈴木誠史
現代の仕事とはどんな意味を持つのか
動物全体がそうであるように、人間はもともと生きることが仕事であったように思う。生きるために水がいる。水がなければ水を汲みに行かなければならない。それが生きるためにしなければならない仕事となる。川の近くでたまたま生を受ければその仕事は大きな仕事でないかもしれないが、砂漠で生を受けたならばその仕事はかけがえのないものになる。
仕事というものはその時と場所によって重要度が変わってしまう。生きることが仕事であった時代から進化を重ね、現代を生きるわたし達は、食料を自給する必要がなくなりスーパーで買えば済むようになった。ならば、わたし達が生きるためにやらなければならないこととはなんだろうか?生きるためにやらなければならないことを仕事と呼ぶとしたら、現代の仕事はそうではないだろう。現代の「仕事」とは、どんな意味を持つのだろうか?
仕事、本来の意味
し ごと【仕事】
①するべきこと。しなければならないこと。
②生計を立てるために従事する勤め。職業
③物体が力の作用を受けながら移動するとき、移動方向の力の成分と移動距離の積で表される量。
④裁縫。針仕事。
⑤しわざ。所業。
-大辞林(三省堂)より
仕事の語源について調べると、もともと①の「するべきこと、しなければならないこと」が本来の意味としてあり、まさに生きるためにしなければならないことを仕事と言っていたそうだが、段々と②の意味合いに変わってきたようだった。
「生計を立てるために従事する勤めや職業」というのは、生きるためにしなくてはならないことと捉えられないことはないが、生きるために水を汲むのとは違う。生計を立てるためにする仕事は転職もできるし、嫌だったらやめることもできる。逃れられない、しなければならない事とはちょっと違う。
生きるために水を汲むというかつての仕事は、重くのし掛かる辛さそのものだったのだと思う。だから人は川や湖から水を引き、水道を作った。そしてできるだけ楽に移動したいから道ができ、鉄道や車が開発されていった。生命維持に必要な仕事にかける労力をできるだけ減らし、もっと楽に生きていきたいという根幹の願いがそうさせたのだろう。人間が楽に生きていくための発展は決して悪いことではない。
家事も「しなければならないこと」ではない?
現代のわたし達は、生きるためにしなければならない仕事のほとんどを「自分でしなくてもいい」とされる環境で生きている。身の回りの家事ですら外注することができる。食べることは外食で代用できるし、誰かが作ったものを買ってきて家の中で食べること(中食)もできる。掃除はハウスクリーニングに頼み、洗濯をクリーニング屋に頼むこともできる。前述の通り、楽に生きるためにすることは悪いことではない。
だがもし生計を立てるためだけに仕事し、家事を代行してもらったとしたら、人間には何が残るのだろうか。
仕事で十分に賃金を稼ぎながら、休日にはスポーツジムで汗を流し、アクティビティに励み、社会人になっても大学に通い学び、ピアノやお茶を習い、友人と遊び語らい、自己の向上に励み続ける。そんな夢のような生活を、人間誰しも送れるわけではない。経済的に満たされても余暇が少なかったり、余暇がたっぷりあってもお金に余裕がなかったり、双方が満たされていても学び続ける向上心を持っていないかもしれない。
経済的に余裕があり余暇も持て余している人が、必ずしも余暇を充実させるような行動を取れるかどうかはわからない。余暇を充実させることは、生きるために水を汲みに行くこととは違う。余暇を充実させる行動は生命維持とは直接的に関係のないことだからだ。そこに労力を割くことができるのは、相当に意思の強い人間のみだろうである。だから、そういった生活にだけ憧れを持つのは建設的ではない。極めて現実的な自分の生活にも目を向けて考えてみてほしい。
家事に意味を持たせる
本来の意味を持つ仕事を、あえて家事と認識してみるのはどうだろうか。
掃除機をかけたり雑巾掛けをすることを「体を動かすスポーツやアクティビティ」と捉え、料理の手順を円滑に行うことを「頭を働かせる勉強」と捉え、片付けや掃除といった毎日のルーティンを「お茶のような習い事」と捉えてみる。
余暇に自己成長の為に行ってきた行為と、家事をすり替えてみる。身の回りのやらなければならないことに意味をもたせ、自分自身にとって心地よい空間を作り出している家事という行為に、勉強や付加価値を感じさせるような考え方を取り入れてみてほしい。この考え方が浸透したら、家事というやらなければならなかったものが、自己を成長させる新しい仕事に感じられるかもしれない。
家事という行為に意味を持たせてやってみると、付加価値として心地よい生活が手に入る。生命維持のためにやらなければならない、やらなければ明日死んでしまう、というほどの使命感は持たなくてよいが、やると何だか気持ちがよい。そして、余暇に取り組む行為と比べて、家にいながらして自然とやれる家事は難易度が低い。自己を成長させるための行為として、家事はちょうどいい。
身の回りのことをきちんとできる人は、恐らく気持ちの良い人だ。家の中と外での行為に隔たりがなく、中身まで気持ちがよい。掃除は部屋だけでなく心もきれいにする。家事は自己を成長させる。人間形成の第一歩だと捉えて、ちょうどいい仕事だと思って家事に取り組むことをおすすめしたい。家事を毎日行うことは、人間にとってちょうどいい選択なのだ。