モノ買う人々、モノ売る人々
- 執筆:平田はる香
- 撮影:若菜紘之
- 編集:鈴木誠史
わざわざ傑作選
良いものを買って長く使う?
経済至上主義に象徴される消費社会に嫌気が差したのは大分前のことです。雑誌の編集部でアルバイトをしていた時に、メディアが作り上げる虚像を知りました。モノを売ることに対し、巨大な資本が動き、メディアで一斉にまくし立て消費を促します。消費者の目が曇っていると、その渦にあっという間に飲み込まれていきます。
TVや雑誌の世界で広告の需要が減速すると、インターネットに凄まじい速さで波及していきました。10数年前、インターネットで情報を発信する人は限られていて、自分の信じる情報を発信する純粋な気持ちを持っていたはずですが、今では個人個人の発信の場にも広告が乱れ入り、自ら情報を選択する能力を高め、括弧たる意思を持って望まなければいけない時代に突入しました。
ここ数年でナチュラル志向が取り沙汰され、たくさんのメディアが取り上げています。その中で「良いものを買って長く使う」という大きな流れがありますが、時々?マークが頭の中に浮かぶのです。まだ使える鍋を捨てて、長く使える高価なモノを買うことは果たしてよいことなのでしょうか。まだ着られる服を捨てて、長く着られる服を買うことはよいことなのでしょうか。
メディアが暖かい気持ちを持って、心から良いと思えるものを紹介したとしても、消費者は単純に購買意欲を刺激され、むやみに購買に走り、本来なら長く持続すべき事柄も使い捨てのような情報になることもあります。
発信する側の意図、受け止める側の思い、この一致は果たして有り得るのでしょうか?
『広告がない』の衝撃
私が『暮しの手帖』を好きになったのは、広告がない雑誌を初めて見たという衝撃からでした。暮しの手帖の中の情報を、全て受け入れて全て妄信するわけではありませんが、やっぱり大方好きで、雑誌を読むという、何かただ退屈凌ぎにページをパラパラめくる時間の楽しさや幸せを味わっています。
一昔前、フリーペーパーが流行り始めた時に、その内容がかなり新鮮で面白く、カフェやお店でいくつものフリーペーパーを拾い集めてきました。お金の絡まない純粋な情報は大きな価値があり、好奇心を刺激されました。インターネットもまだダイアルアップの時代で、まだまだ紙で発信することの意義があった時代です。数年すると、大概は資金繰りから継続が困難になり、広告が乱立して面白みの欠けるものになりました。
インターネットは、各自が情報を選びながら歩くので、自然と自分の好きな方向ばかりを探ることなりますが、こういった紙媒体は誰かの物差しで、大まかな情報を得られることに意義があり、またネットとは違った楽しみがあります。手にする楽しみもありますし、これからも期待したい好きな媒体の一つです。
こういったことから最近、情報はお金で買う方向にむかっているのかなと感じる時があります。ウチでは全くTV(地上派)を見ませんが、好きなサッカーやテニスは、衛星放送を契約してお金を払って視聴しています。時々映画を見たり、娘とアニメを見たり楽しんでいます。CMで焦らされてイライラすることもありませんし、予約して録画して時間のある時に視聴してとても時間が有効的に使えます。
自分と価値観の合う情報をお金を払って得ることも時にはいいなと思います。モノを売ることだけに執着しないモノづくりが大切だと感じます。
モノを売らないと生活できない人、モノを売るための過程を生業とする人、そして買う人、大抵の人がその流れに組み込まれている世の中です。どの人も必死に生きています。私たち消費者は確かな目を養う必要があります。
買い物がつまらなくなったわけ
かく言う私もモノを売る仕事を生業と致しました。買うことを否定しながら皮肉なものですが、「買う」という事柄に別の大切な存在意義を感じたからに違いありません。汗水垂らして稼いだお金を何に交換するかと考える時間=買い物は楽しむべき事柄であり、有意義な時間にしたいと考えるようになりました。
モノをモノとしてだけ見て、その価値をお金に換算することだけを考えるやり方は、私の中でとうの昔に死にました。モノの価値を値段とだけ比較して、コストパフォーマンスが高いとか、より安いものを買うとかそういうことです。
主婦になりたての頃はやはり節約ばかりに目が行き、本質を見失うことしばしばでした。ガソリンを撒き散らして地域中のスーパーを回り、安いものを買い集めて得意になった挙句に、冷蔵庫の中で作ったものを腐らして、家計簿を睨めっこして何でこんなにがんばっているのにお金が貯まらないのだろうと思っていた時期がありました。
その後にインターネットを駆使して、よりいいものを安く買うという志向がエスカレートしました。これは概ね成功しましたが、何だか買い物がつまらなくなっていきます。パソコンに向かっていて買い物ばかりでは、少しツマラナイのです。
私のがんばり=お金を誰にあげたいのか
以前の私は、いつもお金の価値とモノの価値を定規で照らし合わせて買い物していました。このスタイルの買い物は、今でもある程度有効活用できます。電化製品などの購入をせざるを得ない時には、十分使える手立てですが、早々電化製品など買う機会もないので、1年に数回程度の買い物方法です。
その内、日常にかかわるもの全てを手作りしようとしてみました。畑で野菜を作り、味噌を作り、パンを焼き、麺を打ち、服を縫い、家具を作り、これも大体作ることができました。ですが、どれも非常に時間がかかるのです。生活のためにだけ生きることができる時代ならよかったのですが、働いてある程度お金を得なければ生きていけませんから、手作りが全てよいというわけではないと感じることになりました。買った方がよいこと、たくさんあります。
私のがんばりを誰にあげたいのか考えるようになったことで、私の買い物へのスタンスは大きく変化していきました。何が欲しいか、何が得なのかという考え方ではなく、自分に必要なものとそのモノに費やされている思いや、モノを買うことによってそのお金が誰の元へ行くのかということを対価に置くことで、お金の使い方が変わっていきました。
損得で考えない買い物スタイルは私の生活を180度転換させていきました。カフェでお茶をすること400円と自動販売機でジュースを買うこと120円を比べた時に、以前は確実に後者を選んでいました。今は時々カフェでお茶を飲みます。自動販売機では成し得なかったコミュニケーションがそこにはあり、出会いがあり、教えがあり、癒しがあり、400円ではとても買えない様々な恩恵を与えてくれました。
選ぶのは面倒。
だけど選んで買いたい
一方で、お金を使うのが時々メンドクサイなと思うことがあります。今、私は買うことをやめると多分死にます。買わずには生きられません。モノを選ぶことに時間を掛けて熟慮すると、ある程度の時間を費やさなければなりません。買うことの意味を深く考えすぎると、日常の生活に支障をきたします。だから、スーパーに行って適当に買うこともあります。
でも、もったいないなと時々思います。やっぱり選んで買いたいなと思います。
必ず買い続けなければいけない商品は、できるだけコレと決めてしまいたいと思っておよそ7年ほどかけて自分の定番というのを作ってきました。なくなったらコレ。で、時間の有効活用です。それはその商品を作っている背景や気持ちももちろん組み込まれている商品ということです。ねば塾やびわこふきんなんかがそうです。調味料もそういう風になってきてます。
好奇心に手足が生えたような私ですから、こういう時間の短縮はとても大切です。いつか死ぬまでにやりたいことが死ぬほどありますから、選ぶ時間が無駄にならないように賢く時間を使いたいのです。なので、今は探します。そして、探したものを集めるのです。
そういう店作りをしていきたいなと思います。自分が外に買いに行くのが面倒だから店に置くというわけではありませんが(多分)、だれかの基準である程度セレクトされている店というのは非常に便利だと思います。そこに価値観の一致さえあればいいなと思います。だから、私はそれをやりたいなと思っています。そういう基準でものをいつも探しています。
私はパンと雑貨屋を営んでいるわけですから、こうやってモノを売るスタンスについてブログに書くこともある意味広告的であり、矛盾を感じることもあります。ですが、インターネットという時代の利器を使ってしっかり伝えたいと思います。あとは皆さんが選んでくださればよいのです。
買って支える。
知人と話していて感動したことがあります。私がamazonではなるべく本を買わないようにしていると話したら、知人は近所に1軒だけある本屋さんで全て注文して購入すると言いました。amazonだと3日で配達されるような本が、何故か手元にかかるまでに1ヶ月かかると笑って話してくれました。“買い支える”ことを念頭において実行していることに感激しました。
翌日、同じことをやってみたくなった私は町内の本屋を探しました。…愕然としました。なかったんです、本屋が…。正確に言うと1軒だけあったのですが。もう何年も前に、本屋が町にないということで、子供のために町営の本屋が1軒作られました。市役所の職員さんが子供の登下校の間だけ、お店を開けます。そんな本屋が1軒あっただけでした。市内に数件ありましたが、少し遠いです。(近々、本の取り扱い始めます。自分が好きな本に囲まれようと思います)
【編注】2019年4月、長野県東御市の芸術むら公園内に本・喫茶・ギャラリーの店「問tou」をオープンした。わざわざが日常の店であるのに対し、こちらは非日常がコンセプト。偏愛をテーマに3500冊の本を置く。
お客様に1年ほど前に「がんばって買いに来るから潰れるんじゃないよ」と言われたことがあります。とっても嬉しかったのです。そして、この会話は私の中で角さんの「たかがパン屋」と共に、言葉を変えて巡る言葉となったのですが、それがさっきの話「買い支え」です。
買って支えるなんて言葉はパン屋を始めるまでピンときませんでした。ですが、今、私は紛れもなくお客様に買い支えられています。「おいしいから買いに来る」わけではないんだなぁと時々思います。
もちろん上記は大前提ですからがんばらねばなりませんが、時々「この人は私のことを支えに来てくれているのかもしれない」「もしかしたら明日のパンがないからじゃないかもしれない」と、思う時があります。
自分がお金を使う時に感じた気持ち、自分に向けられているような、そんな気が時々することがあります。パン屋のカウンター越しの会話で暖かな思いやりを感じます。嬉しくって嬉しくってがんばろうと、ギュッと力が入ります。
モノ、買う、売る。
買う人⇔売る人。この間にお金のやり取り以外のことが生まれますように。
モノ、あげる、もらう。
注:田舎に存在する不思議な循環(これ好き)
されどパン屋です。そんなこと考えながら、明日もパンを一生懸命焼くのです。長い長い取り留めのない文章、読んでくださってありがとうございました。心より感謝しております。