ミュージシャンからソファ屋へ
- 執筆:わざわざ編集部
- 撮影:若菜紘之
家業を継いでオリジナルブランドを作ったマニュアルグラフ
マニュアルグラフとわざわざが一緒に作ったTSUGUソファ。お披露目会が始まりましたが、みなさん、既にご覧いただけたでしょうか?
長野県東御市のわざわざの姉妹店「問tou」にて展示即売会がスタートしています。
2022/12/1(木)から12/26(月)までの火曜日水曜日を除く10時から17時までご覧いただけますで、ぜひ足を運んでみてくださいね。
特徴の一つはファブリック。全てのソファのファブリックが残反から作られており、一つ一つのソファの生地が違います。ですが、集めるとこんな感じに心地よい連なりができるようなデザインをしています。
どこからみても表情が違うのが愛らしいのです。
お好きな形を組み合わせて並べることで様々な家の形に合わせることができる設計です。このフラットなプロポーションや構造、全てが相まってこのソファとの一期一会を楽しんでくださるお客様に出会えることを楽しみにしています。
さて、今回はそんなソファを一緒に作ったマニュアルグラフ代表の鈴木さんに、お話を伺ってきました。
音楽に明け暮れた人生の前半戦
鈴木さんは、静岡県裾野市のソファ製造会社の息子さんとして生まれ、できれば家業は継ぎたくないと思っていたそうです。それは、小学生のころに深夜のラジオで出会った音楽。そして、ギターを手にした瞬間からミュージシャンになりたいと、その夢にまっすぐと進んでいきました。中学生になってからはギター教室に通い、大人たちと一緒にバンドを組み、ミュージシャン街道まっしぐらで目指していったのです。
とにかく東京の大学に行って、東京にまず出たい。大学に入ってからもバンド仲間を探し、ライブハウスにデモテープを送り、バンド活動を最優先させていく生活が続いていきます。そして、大学卒業後すぐにインディーズレーベルでのデビューを果たします。時は2000年初頭、インディーズレーベルがかなりの人気でブームになっていた頃の話です。
鳴り物入りで出したファーストアルバムは、期待したほど売れず、実力がないのか花がないのか、同期でデビューしたアジカンが勢いよく売れていく様子を見て、なぜ自分たちが売れないのか悩むことが多くなっていきました。セカンドアルバムを出し、さらにその後、結婚して就職してからもメジャーデビューの幸運を得るも、こちらも鳴かず飛ばず。ミュージシャンであることはいつの間にか生業ではなく、趣味の一つとなっていったのです。
インテリア会社への就職が一つの転機へ
26歳で就職したインテリア会社での営業職。建築系の資材を販売する営業職についたことで、鈴木さんは少しずつ家業を意識していきました。カーテンや壁紙を資材として営業することになりましたが、先輩には「士農工商インテリア」だと言われてしまいます。想像していたよりもずっと泥臭い仕事で、イメージしていた華やかなインテリアの世界とは全然違っていたそうです。
そこで鈴木さんは、もっと自分の売りたい場所に売っていきたいと新規を開拓していきます。おしゃれなデザイン事務所に営業をかけ、プロダクトデザイナーに気に入ってもらい、新規の顧客を獲得していきます。音楽は楽しかったけれども、それを失ってしまったので、なんとか仕事でも楽しくしたい。そんな思いで夢中になって営業をかけていったのです。
この仕事に邁進していた8年間、家業のことが脳裏に何度も浮かびました。そんな折、2011年東日本大震災が起こったのです。
静岡へ。
鈴木さんは、震災当日、家族とも連絡が取れず、世田谷から自宅のある川崎市まで歩いて帰ると、真っ暗な中で家族がろうそくで暖をとっていた状況を目にします。それを見た瞬間に、故郷のことを思い出しました。
「地元だったら近所の人が助け合っているはず。だけど都会にはそれがない。」
自分が育った環境がどれほど暖かい環境だったか?ということに気が付いた瞬間でした。これまであれほど都会で暮らしたいと思っていたのに、自分の子どもにはそんな暖かい環境で子育てできていないことにも疑念を感じていったそうです。
そんな折、震災の影響で家業が苦しくなりもう辞めようかと思っているという連絡が実家から入ります。遂に決意を固めて、鈴木さんは静岡で家業を継ぐことになったのです。ミュージシャンとしての挫折、インテリア業界での経験、震災で感じた子育てへの思い、自分が育った地元の環境。様々な思いを経て、静岡へと向かいました。
オリジナルブランドを作るまで
ここからは事業を回復させることが目下の課題です。当時のフジライトは、自社ブランドがなく受注品を作るソファメーカーでした。オリジナルブランドを作ることを目標にしつつ、これまでの経験で培った営業力で、既存の仕事を飛び込みで営業をかけて伸ばしていきました。
世の中の震災後の景気回復の流れの後押しもあり、さらに東京で培ったパイプが功を奏し、経験と繋がり始め、業績は回復していきます。そして、2013年にオリジナルブランドであるマニュアルグラフを立ち上げていったのです。
同時に行ったのが、技術継承のための採用活動です。継いだ直後は、スタッフが65歳以上しかいなかったので若手を採用してしくみを作っていきました。この二つが絡み合ってブランドは少しずつ成長を遂げていきました。事業継承時に1億円を切っていた売上高も回復して、5年で2億円を超える成長となっていったのです。
マニュアルグラフの工房に伺うと驚くのが、働いている人の若さです。日本のものづくりの現場でこれほど若い人たちが沢山働く場所をあまり見たことがありません。素晴らしいです!!
どのポジションにも沢山の若いスタッフが働いています。マニュアルグラフのブランド力が若い方達を惹きつけているのかもしれません。
これからの10年は
2020年、例外なくマニュアルグラフを襲ったのは、パンデミックの影響です。既存事業がオフィス・飲食店・ホテル旅館にソファを収めることが中心だったので、それまで順調に伸びていた業績が打撃をうけました。オリジナルブランドのショップも撤退し、工房兼店舗の一店舗だけに絞り込むなど対応に追われていきました。
鈴木さんは、これまでの自分自身の行動や考え方を改めて、事業を再構築したいと話します。どこかコロナを言い訳にしてしまい、世の中やお客様をきちんと見ていなかったかもしれないと。帰ってくる理由になった一つの温かい地元のコミュニティに向き合い、地域に貢献すること・社会やお客様に対して役に立ちたいという思いが強くなったと言います。
これまでの10年は、数字ばかりを追い求め、既存事業をベースに自社ブランドを立ち上げて、工場直売でお客様にソファを届けることを実践してきました。これからの10年は、もう一度ソファを使ってどうやって役立つのか?地域と社会にどうやってアクセスしていくのか?そんなことに夢中で取り組みたいと鈴木さんは語ってくださいました。
その中の一つがわざわざと一緒に作ったTSUGUソファになるのかもしれません。ソファの購入は一生に何度も行うものではないかもしれません。だからこそ、私たちはその接点を大切にして、新たなプロダクトを生み出しました。
ぜひマニュアルグラフとの協働をご覧いただけたら幸いです。みなさん、ぜひ会場に足をお運びいただければ幸いです!