
あかし→平田さんへ
平田さん、こんにちは。お返事を書くのが随分と遅くなってしまいました。ただ、前回のお手紙で「人に頼ることがいつからできるようになりましたか?」という私からの問いに対していただいた平田さんからの言葉たちが、ずっとぐるぐると頭の中を巡っていました。
誰かと共に働くにあたって「自分自身の分身」を求めようとされていたわざわざの初期の段階から、「志や考え方は伝えるが、自分で考えてやってもらう」ようになった時期のこと、任せすぎて崩壊したフェーズ、そして頼るとは塩梅であると気づかれた時のこと。まさに私が今悩んでいたり、これからぶつかるであろう課題を経験されていて、どのエピソードも目を丸くし、首を縦に振り、そして時にウームなるほどと唸りながら読ませていただきました。
平田さんのお手紙を読んで、人を頼り、安心して任せられるようになるためには、わたし自身の自己理解と思想の言語化が欠かせないのだなということにあらためて気付かされました。「自分がどういうところに困っていて、何を助けてほしいのか。それは何のために必要なのか」。自己理解と言語化、そしてチームメンバーにそれを開示する勇気と素直さとコミュニケーションの丁寧さ。スキルと性格の両輪があってはじめて、人は誰かに頼り、任せることができるのですね。
そしてやはり、平田さんは自己理解がすごいです。何か問題が起きた時に、その問題の原因を紐解いて、次にどうアクションすべきかを冷静に分析して着実に行動していらっしゃる。そこが私が平田さんを尊敬する大きなひとつの要素なんだなあと、あらためて思わされるお手紙でした。
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さてさて、平田さんからいただいた「あかしさんは仕事で本屋2店舗運営とライター、編集という沢山のわらじを履いている状態だと思いますが、自分自身としてはどんなタイプだと思いますか? またどんな風にaruや編集業を未来に紡いでいくのかとても興味があります」というご質問(?)について。
わたしは昔から、何かひとつのことに没頭するタイプではないという自覚があります。アーティストや芸能人など、誰か特定の人に夢中になったこともなければ、何かの趣味にのめり込んだり、好きで好きでたまらなくてそればかりをして突き詰めた、という経験がほとんどありません(部活や勉強に真剣に取り組んでいた時期はありますが、そのどれもが「自ら好きで選んだもの」ではなく、没頭や夢中という言葉とは少し違うように思います)。平田さんのDJ時代の話やパン作りを始められた時の話、さらには庭づくりやお料理・将棋など、さまざまなものへの没頭加減を見ていると、なおのこと「私はそういうタイプではない!」と痛感します(笑)。
昔は何かに没頭できない自分を「浅い」と思ったり少しコンプレックスに感じていたりもしたのですが、そうなれないものはなれないのだからと、最近はもう特性として諦めるようになりました。でも、そのかわりに、いろんなジャンルのものに触れ、人と出会い、多くのことから少しずつを学んでいって、その共通点を探して点と点を繋いで星座にしていくようなことが大好きです。足を使って、いつも新しい世界に触れていたいと感じます。自分自身の人生にいつも疑問や違和感を持っているので、その答えはどこにあるんだろうと、広い世界の中で何かヒントを探しているのかもしれません。そして、だからこそ編集者やライターという職業で仕事をしているんだろうなあと感じます。
「いくつものわらじを履いている」と思われがちなのですが、私がやっている「本屋」「編集」「執筆」という職業は、すべて箱のようなものであり、本質的には似たようなものだなと感じています。本も文章も、その単語自体では何の意味もないただの箱。だからこそ、どんなジャンルでも受け入れることができる、いかようにも組み合わせられる、まるで人生の写鏡のような職業だと思います。
わたしは割と自分中心な人間なので、いつでも仕事に「自分の人生」を乗せられる余白を用意しておきたいのかもしれません。もしわたしが母親になったらaruには絵本が増えるかもしれませんし、両親の介護が必要になる時がきたら、介護についての文章をたくさん書くライターになっているかもしれません。その時々の自分の興味や生き方に素直に忠実にあれるように、仕事が一番の自分の悩みや課題と向き合う術であれるように、そしてその先で、同じような悩みや葛藤を抱える人の救いになれるようにと願っています。
私はまだ、平田さんのように「人々が健康である社会へ」というほど大きな使命感を持てていないのですが、人が「言葉」という味方を手にすることの意味や力をとても強く信じています。文章を書くことや読むこと、そして本を作ること、売ることで、人生の悩みと向き合い、人とつながり、社会とつながって生きられるようになったからこそ、「言葉」というものを通じて何か自分の人生を切り開くことができる人がもっと増えればいいのにな、といつも思っています。
いま初めて言語化したのですが、「ことばという味方を身につけ、自分の人生を歩める人を増やしたい」というのが、私のやりたいことなのかもしれません。
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さて、このお手紙を書いているのは2025年の12月なのですが、上記の私の思いをもっと色濃く実現させていくためにも、5年半続けた二拠点生活をやめて、岡山に完全に移住することにしました。これからは、本屋の事業にもう少し本腰を入れてみたいと思っています。 自分にとってひさしぶりの大きな変化となるので、少しドキドキしています。
平田さんは、最近やめたことや、劇的な環境の変化はありますか? 何かをやめる時に大事にしていること、やめると決める時の基準などについてのお話を聞いてみたいです。
いつでもかまいませんので、またお返事、たのしみにしています!
平田→あかしさんへ
あかしさん、丁寧な振り返りと感想とありがとうございました。嬉しいです。あかしさんの仕事にも通じると感じますが、いつも誰かが書いたものへの丁寧な感想が素晴らしいですよね。
ものを書く人たちは、書いている時はちゃんと読み手に届いているのか?という不安を持っていると思うので、真っ先に読んでくれる編集者がきちんと感想をフィードバックしてくれるのは、とても嬉しいことだと思います。そして、私もきちんと嬉しい。笑。感謝しかないです。
自分では自分のことは自己理解しているとは思っていませんが、客観視は割と得意だよなという感じはしてます。それをあかしさんが平田さんは自己理解がすごい!と言葉にして伝えてくれると、自分の客観的な視点が間違っていなかったんだという風に理解が高まります。
面白いなと思うんですが、結局、自分の価値を決めるのは他者なんだなぁと思います。自分は自分を形作れないんですよね、人が私を私だと形作る。とても抽象的で仏教的でもあると思うのですが、自分が他者によって構築されていると実感する瞬間でもあります。
今、私はこのお返事を2月に書いています。あかしさんとはこの交換日記の間に会って話しているので、岡山に引っ越して順調に楽しく生活しているのは知っているのですが、改めて引っ越しおめでとうございます。また新しい人生が始まりますね。岡山→長野で更に距離が離れましたね。でも、これからも一緒に楽しく仕事して遊びましょう。
そして、読んでいる途中で、あかしさんがビジョンを言語化した!!すごっと思いながら読みました。「ことばという味方を身につけ、自分の人生を歩める人を増やしたい」いいですね。このビジョンについて感じることがあるので先にそれを話しますね。
私は言葉が大好きです。そしてそれをうまく使いたいと思ってるし、言葉は他人に様々な事柄をわかりやすく伝えるもので大切で価値があり、人間の歴史を変えてきたとさえ思っていますが、最近、言葉を捨てたい、言葉に操られたくないという感情も湧いてきます。
そうなんです、言葉って人を操る側面もあるんです。言語化という言葉が流行っていますが、よくわからない感情や思いを言語にした瞬間に、概念が固定化されて言葉が主導して自分の気持ちを形作っていくのですよね。自分の気持ちにぴったりな言葉を見つけたと思ったのは束の間、言葉が感情を作り、立場が逆転するんですよね。
これは筋トレで気がついたことなんですが、「重い・辛い・できない」という感情が脳内で湧いた瞬間に、バーベルが上げられなくなるんです。だからそれを先読みして「自分は必ずこれを上げることができる」と言い聞かせます。すると、不思議とさっきまで重く感じていたバーベルが上がるという現象が起きます。要は筋肉に指令を出しているのは脳なので、脳がダメだという判断をした瞬間に筋細胞は働かなくなるという科学的な話で、脳がそのバーベルを上げるか上げられないか先に決めているんです。
もし「重い・辛い」という言葉を知らなかったとしたらどうなるのでしょうか。そう考えると、辛いという言葉にバーベルを上げることをやめさせられたとも思えるんですよね。言葉が怖いと初めて思いました。自分が自分にネガティブな言葉をかければ簡単に暗示がかかる。それは人に対してもそうです。言葉はとても重要であると同時に武器にも成りかねない恐ろしいツールでもあることに気がつきました。
さて、そこであかしさんのビジョンを振り返ります。「ことばという味方を身につけ、自分の人生を歩める人を増やしたい」...めちゃくちゃよくないですか?!ことばが味方になるのならば、勇気が出ます。ことばには力があるということをあかしさんは知っていたんだなぁ。笑。私は50歳間近になるまで気が付かなかったんだけどなぁ。すごいです、このビジョン、ぜひ達成させて欲しいです。応援したいです!
ということで前置きが大変長くなりましたが、本題を。
”最近やめたことや、劇的な環境の変化はありますか?何かをやめる時に大事にしていること、やめると決める時の基準などについてのお話を聞いてみたいです。”
最近、やめたこと...。いやー難しいですね。何にもやめてないかもです。物質的なことで言うと、年始に今年はお酒をやめようかなと思っていたんですがわざマートのワインバイヤーの仕事があるので、むしろ飲酒が加速しているような状況です。笑。生活習慣においても余り修正するべき点が見つからず、快適に過ごしてます。人間関係についても、相変わらずプライベートでは殆ど人付き合いがなく、仕事でも会社でもすごくよい人たちに恵まれており、自分の幸運にありがたさを感じる日々です。子供達も元気で関係性も良好で、何かをやめたいと思うこともありません。
劇的な環境の変化もなく、凪ですね。。何もない。笑。もうこれまでにスリム化されまくって生活そのものがミニマムなので、特にこれ以上制限することがなくなっているというのが現状なのかもしれません。
私は最近、殆ど同じリズムで生活をしてます。出張も月に1,2回で、週に2,3日は会社に出勤して会議などに参加し、店の様子を見に行ったり、後進の指導にあたってます。週の2,3日はリモートワークで、商品開発とバイイング、販売分析、事業の資料化やMTGをひたすら行い、ものすごい勢いでPC作業してます。夜は子どもと一緒にのんびりネトフリを見てご飯を食べ、将棋を打ってから就寝。週末は下の子とひたすら遊び、料理して掃除してます。合間に筋トレに行って、月に1回くらい飲みに行って終わり。
今の生活を繰り返した後に、会社の事業がちゃんと成長しているといて欲しいと思っていて、子どもが元気に大きくなってくれれば十分です。ただそれには日々の行動がとても大切だと思っているので、一生懸命毎日取り組むのがいいと思ってます。
うん、そうだ。やめるとさえ思ってないのかもしれません。会社のバックエンドのサービスなんかは、実はどんどんやめて乗り換えを行ってるんですよね。去年、そうか、創業した店舗「わざわざ」も閉めてましたね。忘れてました。笑。今年もいくつかサービスを切ろうと計画をしてますね。確かにやめてるな、、でもやめたことなんですか?と聞かれた時に出てこなかったのはなぜかと考えると、呼吸するみたいにやめるからかもです。
サービスを変更する時は、ほぼ計算で結論を出しており、中長期計画を立てる時に過去のデータを精査して、年単位でダウントレンドでありこのまま継続していっても経済的なメリットが出ないと判断したら、思いは断ち切ります。それが持続可能性のある経営だと考えているからです。これまでも時々、やめなくてもいいんじゃないか?とアドバイスを受ける時もありましたが、この判断については自分の方が大抵正しかったです。
数年間におけるデータをきちんと確認して結論づけているので、経営におけるやめる判断は、データに基づいて考えるべきで感情に基づかないのが正しいと思います。資本主義の中で経営しているんですから仕方ないですよね。その概念の中で、人を雇い、責任を担ってるのだからどうしようもありません。
あぁ、考えていくと、命の短さを知っているということがやめられる最大の理由かもしれません。幼少期に父親が余命宣告された経験が、人は必ず死ぬという理解に繋がりました。だから日々を大切に、限られた時間を無駄に使わないようにしようというのが根底にあると思います。
最近は講演なども全て断ってますが、今は自分が家でPCに向かって仕事した方が世の中にインパクトを出せると思ってるからだと思います。人に向かうことの方がインパクトが出そうな気がして、講演活動は好きではないけど必要だと思ってやってきましたが、私がPCに向かって構造化や仕組み化して社内・社外に落とし込んで行った方が、社会におけるインパクトが大きいと気がつきました。不思議ですよね。声で大勢の人に呼びかけるよりも、しくみで呼びかけた方が変わると感じたんです。講演は誰でもできるが、小売の新しい仕組み化は、もしかしたら私しかできないかもしれないと少し思ってるんです。
命が限られているから、自分がどこにリソースをかけるとインパクトが出るかを考えてます。週末に子どもとダラダラ遊ぶのは、子どもにとって成長期に親と遊んだことは宝物になるのでは?と思っているからで、親から無償の愛を浴びせられていたら、きっと将来この子達の力の源泉になると思ってるからです。やっていることは一緒にゲームしたり、ご飯を作ったり、公園で遊んだりとたわいも無いことで生産性もありませんが、この愛というものは幼少期に親からしか与えられないものなので、とても大切な時間だと考えてます。私にとって愛の形は、大切な時間をその人に渡すことなのかもしれません。だから全力で遊ぶのだと思います。
そう考えると何をやるか、やらないかは人生にとってとても大切なことですね。その選択が、人の骨格を作っているような気がします。あかしさんは、やめる、やめないについてはどう考えているのですか?またやめたいけどやめられないことなどはあるのでしょうか?人がどのように「やめる」に向き合っているのかを聞くのは面白いですね。またお返事楽しみにしています。



