ほんとうにおいしくビールを飲みたいときはグラスビールを頼む。
「友人と楽しく、居酒屋さんで2、3時間」という場合にはまず間違いなく中ジョッキを選ぶけれど、妻とふたりで食事に出掛けたときや旅先でおいしそうなお店に入ったときなどは、頭の中にグラスビールが躍り出る。お腹をじゅうぶんに空かせ、ビールとともに提供されたお通しに頷き、手書きの黒板や日替わりのメニューに心を弾ませて飲むグラスの生ビールがいちばんおいしい。
グラスにする理由はいくつかあるが、なによりもその慎ましさに着目したい。なんでもかんでも量が多ければいいというわけではないのだ。中ジョッキならごくごくと数口喉を鳴らして飲んでしまうところを、グラスならまずひと口ごくりと飲む。おいしい。水分でも炭酸でもなく、ビールを飲んでいることを実感する。一拍置いてもうひと口。ここで初めて、麦芽とホップと泡の個性で構成された、そのビールの味が浮かび上がってくる。
味覚が鋭敏な人やビールに詳しい人はひと口飲むだけでも味の輪郭を掴めるのだろうけど、自分にとってのひと口目はただビールがおいしいことしかわからない。でもそれでいい。ふた口ぶん飲んで、今日はなにを食べようかとメニューに目を移す。グラスにはまだ7〜8分目までビールが残っている。料理が来るまでに飲み切ることもないし、食事の前にお腹がいっぱいになることもないだろう。このビールは会話を盛り上げるための潤滑油ではないし、ただ酔うためのアルコールでももちろんない。食事とともにいまの時間をゆっくり楽しむための相棒だ。小ぶりなタンブラーに注がれた慎ましい佇まいがそれを象徴してくれている。
まさにそんな一杯のビールを楽しみに、と言っていいだろう。ここ2年ほど熱心に通い続けている近所の居酒屋がある。
初めてそのお店の暖簾をくぐったのは2年前の初夏で、珍しく日曜日に仕事をした帰りだった。昼間の暑さが嘘のように消え去った夕暮れに、吹く風がとにかく心地よく、ふと、まだ訪れたことのない近所のお店に立ち寄ってみようと思い立った。そのまま家に帰るのがもったいなく感じたのだ。初めて訪れたそのお店はあまりに居心地がよく、「ここにはずっと通いたい!」と思うあまり、思わずその翌日も出向いてしまった。2日目は妻と一緒だったので、それから我が家でも定番のお店になっている。
妻と出向くときはたいていその日のひらめきで行くことを決める。初めに訪れた頃からするとだいぶ人気のお店になってしまったが(もちろんいいことだ)、よほどの場合でなければ時間帯さえ調整すれば席は取れる。電話口で名前を告げると声のトーンを一段明るくして応えてくれるのが毎回新鮮に嬉しい。
お店への道すがら、お刺身のことを考える。初めて伺ってから2度季節が巡っていることもあり、品揃えの想像もなんとなくつく。
秋は太刀魚がおいしい。少し早いけど鰤も出始めているかもしれない。スミイカの子どもで“新イカ”というのが出るんだよ、と教えてもらったのもそういえばこの時期だったっけ……と、あれこれ考えているうちに店の前に着く。
木の扉を開けて店内に入り、笑顔で迎えてくれる店主に挨拶をして席に着く。このお店の生ビールはグラスビールが標準で提供される。妻のぶんと合わせてビールを2つ注文し、メニューに目を向ける。各席に置かれた、表裏合わせて30品以上はある日替わりメニューの中から「お刺身三品盛り合わせ」と「小つぶ貝の磯煮」を頼む。350円のおひたしから、ときには2000円超のちょっと珍しいお魚まで、時季に合わせて幅広い品が取り揃えられているのもこのお店の魅力だ。
届いたビールをふた口飲んで、再度メニューをチェックする。ときどき厨房の忙しさに目を遣りつつ、次に頼む品についてわいわいと協議を重ねながら、料理が届くまで、ひと口ずつ、ひと口ずつ、グラスビールを飲み進める。至福の時間だ。季節が変わったら、いやたとえ季節が変わらなくともまたすぐに来ようと心に誓う。
何度も通ったお店で、料理を待ちながらおいしいビールを飲む、なんでもない特別。ハレの日とケの日という区分があるが、ここにはハレともケとも分けられない日に来る。あるいは、このお店に来るからハレの日でもケの日でもなくなっているのかもしれない。たった2種類だけじゃなくて、もっとたくさんの名前で毎日を呼びたいと思わされる。
「酒を飲む人生か、飲まない人生か、どちらかにした方がいい。」とは、イラストレーター・安西水丸さんの言葉だったろうか。お酒にまつわる多くの格言がそうであるように、飲む人のための言葉だなあと思う。ここで言う「酒を飲む人生」を選ぶにしても、それは別にたくさんの酒じゃなくてもいいはずである。好きになったお店で、じっくり、ゆっくり、ああこのお酒を飲みに来たんだった、と思える瞬間にたくさん出会える人生だといい。
そんなふうに考えていたところにお刺身と小つぶ貝が到着し、手元のビールをきれいに飲み干す。グラスビールをもう1杯、追加で頼む。