コンテンツへスキップ

カート

カートが空です

今夜、フラニーみたいなバーで

今夜、フラニーみたいなバーで

最近、じっくり、しっぽり、自分や大切な人と向き合う時間を取れていますか? さまざまな人に「とある夜の一杯の嗜み」についてのエッセイを書いていただく連載「今宵の一杯。」 お酒でもノンアルコールでも、しっぽりとした今宵の一杯を──。 第8回は、コンテクストデザイナー・渡邉康太郎さんによるエッセイです。

  • 執筆:渡邉康太郎
  • 編集:あかしゆか

「フラニーみたいなバーに行きましょう」と、ある夜、友人から誘いのメッセージが届いた。フラニーとは、彼女のすすめで読んだ江國香織『東京タワー』に登場する、代官山の架空のバーだ。そのイメージにあった現実のお店をどこか探して、待ち合わせようという提案だった。

さいしょに彼女と出会ったのは、ある雨の夜の写真展だった。彼女は来場するはずの友人とはぐれてひとりになってしまい、相当不安だったらしい。ぼくたちはどうやら偶然同じタイミングで会場前に着き、傘を畳み入場した(そのときぼくは気づいていなかったけれど)。

しばらくして主催者の紹介でぼくたちは引き合わされた。彼女はぼくの顔を見るなり「あ、さっき入口から入ってきた人だ」と安心した笑顔で語りかけてくれた。あとから思うに、この言葉は仲間意識の現れだったのだろう。きっと内心こう云っていたのだ、お互いにひとりで来場して不安ですよね、わたしの前に並んでいましたね、せっかくだからお話しましょう、と。でも彼女を認識していなかったぼくとしてはその意図を汲めず、多少たじろぎながら応えた、「ええ、誰もが入口から入るでしょうね。」いかにも無粋! いや、でもそのときは単に思ったことを口にしただけだった。

後日、指摘された。あの返事は冷たすぎるし、初対面の人を突き放しすぎだと。ほんとうにそう、ごめんなさい。もう閉口するしかない。でもね、もうちょっとわかりやすい云い方があったでしょう。「さっき同じタイミングで入りましたよね、雨強かったですね」とかさ。ぼくはそもそも一緒に入ったことに気づいていないんだから……。

***

その後、いくつもの偶然に助けられてぼくたちはよく話すようになった。夜になると突発的に連絡を取り合って、タイミングが合えば一杯だけお酒を飲む。彼女から何度かすすめられていた『東京タワー』をようやく手に取り、やがて読み終えた夜、ぼくがメッセージを送ると、例の連絡「フラニーみたいなバーで」が返ってきたのだった。

作中、内向的な大学生・透と、大人の既婚女性・詩史は、秘密の逢瀬をフラニーで重ねる。透はビール、詩史はウォッカトニックと注文は決まっている。薄暗い照明、落ち着いた空気、金曜の夜になるとささやかな喧騒。透の若さゆえの緊張と、詩史の年齢ゆえの余裕──。読者はみな、描写から、それぞれの想像のなかで自分なりの「フラニー」の空気感を描き出す。

だから「フラニーみたいなバーに行きましょう」というのは、なんとも粋な誘い文句なのだった。ぼくが思うに、それは食前酒が似合う店かもしれないし(六本木一丁目のルビー・ジャックスのカウンター?)、ひとりでもふたりでも心地よく過ごせる待ち合わせに向いた場所かもしれない(上原のミレチンクエチェントの一階?)。もしかするとネオン管が灯るまっすぐ長いカウンターと現代アートがあるお店だろうか(青山のウォール?)。いや、それら全部が違っていても、もしかしたら代官山で自身のお店を営む自立した詩史のような女性が、普段から通うのがしっくりくるお店であるはずなのだ。考えた挙げ句、ぼくは西麻布のモレスクの雰囲気が一番それらしいと思うに至った。友人のほうは、青山のバーラジオじゃないかと云う。想像は一致しない! でもそのずれが、本の読み方と、お酒の飲み方をたのしくするのだ。

その夜、「偶然会えたらおもしろいですね」とメッセージを送り、どちらのお店にするか合意せぬまま、ぼくはオフィスから近いバーラジオへと向かった。たまたま会えたほうがたのしそうだ。結局、小一時間経って彼女から「どちらのお店に居ますか?」と届いた。あ、やっぱり確認は必要?

待ちながら飲みはじめて、すでに一杯目のグラスは空に近い。その一杯がどんな味だったのか、よく覚えていない。でもたしかにその夜、待ち合わせてお酒を飲んでいるあいだは、ぼくたちのテーブルはフラニーになった、そして少しだけ物語の隣続きを生きていた。

渡邉康太郎

1985年生まれ、慶應義塾大学環境情報学部卒業。使い手が作り手に、消費者が表現者に変化することを促す「コンテクストデザイン」を掲げ、デザインファームTakramで種々のプロジェクトに取り組む。2025年、生活者の声が集まる本屋「とつとつと」を世田谷区に共同創業。慶應義塾大学SFC特別招聘教授(2019-2024年)、東北芸術工科大学客員教授(2024-)。ポッドキャスト「超相対性理論」パーソナリティ。趣味は写真と茶道、茶名は仙康宗達。近著に『生きるための表現手引き』。

渡邉康太郎の記事をもっと見る

特集