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カート

カートが空です

机の上の中心に、マグカップが置かれている。その他にはライトやお水やペットボトルがある。

ひとつまみの幸福を保証する

最近、じっくり、しっぽり、自分や大切な人と向き合う時間を取れていますか?

さまざまな人に「とある夜の一杯の嗜み」についてのエッセイを書いていただく連載「今宵の一杯。」 お酒でもノンアルコールでも、しっぽりとした今宵の一杯を──。

第2回はHARKEN代表でクリエイティブディレクター・木本梨絵さんによるエッセイです。

  • 執筆:木本梨絵
  • 編集:あかしゆか

歩き疲れて入ったシェイクシャックの会計でレジを二度見する。私はハンバーガー3,000円の街に引っ越してきてしまったか。

今年の春に13年住んだ東京を離れてロンドンに移った。和歌山で生まれ育った私にとっては東京に住むことすらも相当背伸びで、海外に住むのはこれがはじめてのことだった。大学に通うため、これを機に仕事もほとんど手放した。ロンドンの物価は高く、感覚としては東京のだいたい2倍くらい。収入が減ったと同時に物価が2倍になった。

ティーポットは日本に置いてきたし節約もしたいので、スーパーで一箱50包入りの安価な紅茶を買い求めた。味は案の定どちらかというと単調。それでもこの不慣れな国で一日の終わりに紅茶を淹れるひとときは、生活の調律のようにするりと習慣化していった。他にも水筒を持ち歩くとか何とか、そんな細かい節約を随所に取り入れながら、こちらでの生活を一から立ち上げていった。

そうして暮らしにもだんだん慣れた頃、約束の時間に友人が来ず(約束の時間に人は来ないということにももう慣れた)、店の近くで待ちぼうけするということがあり、ふと目に入ったのが紅茶屋のTWGだった。以前この店のブラックティーを父から貰い、それから気に入って幾度か買っていたのが懐かしく、今の自分には高額すぎると分かっていたけど手にとった。

黄色い紙袋が嬉しくって嬉しくて、本当はカバンに入るくせに入れずに持ち歩いた。その夜は家に帰るのが楽しみで、なんなら夜の予定はすこし早めに切り上げた。見慣れた黄色い箱を開け、美しい布地の袋に丁寧に入れられた茶葉をつまむ。テートモダンで手に入れたオノヨーコさんのマグカップ「PEACE is POWER」へ投入する(この国でわたしが所持する食器はこのたったひとつである)。

どきどきしながら沸かしたお湯を注いだら、嗅ぎ慣れた甘い香りが広がった。スーパーの紅茶の100倍香る。思わぬ比較対象の台頭により、よく知るはずの紅茶に出合いなおした感じがした。

スーパーの紅茶だけを飲み続ける作戦は確かに経済的にはサステナブルだったけど、精神的には全くサステナブルではなかったようだ。家で一息つく夜がこの数週、十分に満たされたものではなかったことに気がついた。そうして翌朝、わたしはスーパーの紅茶をはじめて積極的に「選んで」飲んだ。TWGは香りが強すぎて朝食には合わない。「食事にはこっちの単調な味の方がしっくりくるんだよな」。気に入らなかったはずの50包をはじめて愛した朝だった。

そういえば先日の放課後、フランス人のクラスメイトと本屋に寄った。二人とも歩くのが好きなので、1時間ほど街を散歩しながらゆっくり向かった。

互いに30代になってからここに来た。背景は違えど色んなリスクを背負ってここに来た。道の途中でそんな話をしていたら彼女が、「We only have one life ― 私たちは人生をたったひとつしか持ってないものね」と言った。続けてぼそっと言う。「猫には7つもあるんだけど」。

ポーランド人の先生にこのことを話すと彼女は9つだと。その起源はイギリスの小説家ウィリアム・ボールドウィンの作品『Beware tha Cat (猫にご用心)』という作品の、「魔女はその猫の体を9回使うことを許されるのだ」という一節だと言われているみたい。なんにせよ、猫と比べて私たちの人生は少ないようだ。

翌日の授業で今度はイタリア人のクラスメイトが宿泊先の愚痴をこぼしながらもしかし、「But okay, it’s a part of my life」と口にしていて、またLifeだと思った。

こちらに来てから「Life =人生」という言葉をたくさん耳にするようになった。それで思ったのは、日本語の「人生 Jinsei」という言葉は音からして少し重たい感じがするというか、発音するときに力むというか、ともかく日々の会話でぱっと使うことが少なかったような気がする。対して「Life」はというと、音的にもっと軽快で、気軽に口に出せるような感じがする。翻訳アプリにかけてしまえば左右に並ぶ二つの言葉は、どうやら単純なイコールでは結ばれていないらしい。より軽快に音に出せる「Life」は「人生」よりも日常での登場頻度が上がる。移住して英語を話すようになってから「Life = 人生」を意識する頻度もつられて増えた。

今夜も小さなご褒美をありがたく頂く。贅沢ばかりがよいというのでは勿論なく、大切なのはバランスであり、選択だ。TWGだってスーパーの紅茶だってどちらも状況によっては嬉しいわけで、しかしできる限り毎度それらを積極的に選んでいられたらなと思う。7つやら9つの人生があれば一度くらいは堪えてもよいかもしれないが、残念ながら、わたしたちは猫ではない。たったひとつの人生をどう生きるのかということに日々向き合うならば、こういうひとつまみの紅茶みたいな幸福を、自分は自分に保証してあげなきゃいけないんだと思う。

木本梨絵

1992年生まれ。株式会社HARKEN代表。武蔵野美術大学特別講師、女子美術大学 非常勤講師。東京とロンドンを拠点に不可分な都市と自然の周縁を学ぶ。自然環境における不動産開発「DAICHI」を運営。旅、自然、日本文化に関わるさまざまな業態開発やブランドの企画、アートディレクションを行う。

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