詩人を職業にして、北アルプスの山麓に暮らし、旧車に乗って、古代の姿を留めるテリア犬を飼い、毎年英国スコットランドへ旅をする——。たとえばぼくの経歴や特徴をそう書き並べると、傍目にはどうしても「こだわりのある人」として映ってしまう。「こだわり」という言葉はややこしい。最近では「物事に妥協せず、とことん追求する」といった肯定的な意味で使われることが多いけれど、元来は「些細なことにとらわれる」ことを指す否定的な言葉。では、ぼくの実際はどうなのか。
前者のような姿勢のときもある。しかし後者のようにどうでもいいことを取り立てて喚くこともある。そして、追求も執着も放り投げて、「なんとな〜く」生きている節もある。こんなにあっちもこっちも混濁した人間は、果たして「こだわりのある人」なのだろうか。ぼくはただのいい加減な人間だろう。それを「良い感じに見せかけている」、あるいは皆さんが「良い感じに見てくれちゃっている」だけだと思う。
さて、今宵のぼくの一杯は、スコッチウィスキーである。本当は、スーパーで買った安価なチリ産白ワインでもよかった。詩の教室の生徒さんがお中元にくれたビールもまだ何本か冷蔵庫に冷えているし、アルプスを隔てた西の集落で友人が醸造するクラフトジンを久々に飲む手もある。
ただ、まあどうだ、このエッセイ特集のラインナップとして、ぼくがこのあたりで「今宵のぼくの一杯は、スコッチウィスキーである」と切り出すのは、大いに望まれている気もする。それにもしもここでぼくが気を衒って「今宵の一杯は、蛇口の水です」なんて言ったとして、してやったりと思ったのも束の間、そのうち他の執筆者が「今宵の一杯は、スコッチウィスキーの…」なんて書いたら、あーやっぱりぼくが素直にそれを書いておけば!なんて思うに違いないのだ。
だから、そう、改めて宣言しよう。今宵のぼくの一杯は、スコッチウィスキーである。
そうと決まれば、次は「どのスコッチを飲むか」だ。いざ、スコッチが並ぶキッチンのハンギングシェルフの前へ。すると目に止まったのは、まず〈ダルウィニーLizzie’s dram〉だ。ダルウィニーは、スコットランド・ローランド地方とハイランド地方を繋ぐ幹線道路A9沿いにある蒸留所。おそらくスコッチの銘柄としてはマイナーなモルトだけれど、ぼくがスコットランドを初めて訪ねた2013年、屋根裏部屋を貸してもらった現地の一家に連れられて、人生で初めて足を踏み入れた蒸留所だ。だから思い入れがあって、ハイランド地方に行くときは必ず立ち寄る。
Lizzie’s dramは、蒸留所限定でリリースされたスコッチ。品名にある「Lizzie」はエリザベス・ステュワートの愛称。男社会であるスコッチウィスキーの蒸留所で初の女性オペレーターとなり、以降30年間ダルウィニー蒸留所で働いた方で、その栄誉を称え、このボトルは造られた。「詩で生計が立つわけがない」と嘲笑う社会で一つひとつ詩の仕事を創り出し、結果を積み上げてきた身にとって、こういう話は親近感を覚える。その感慨を、柔らかな麦の味わいと柑橘類の酸味がほどよい強さの度数で喉奥へと注がれるこの一杯で堪能する。ああ、心地よいに決まっている!
もしくは〈キルホーマンLOCH GORM〉もいい。アイラ島を訪れたのは、2019年。この島はスコッチの聖地であるとともに、バードウォッチングの聖地でもある。安曇野に移り住んで野鳥観察が趣味になり、ついに滞在した。島じゅうをレンタカーで縦横無尽に走りながら出会ったのが、キルホーマン蒸留所だった。
閑散期の冬、ビジターセンターへ行くと係員が嬉しそうに声をかけてくれて、マンツーマンで所内を案内してくれた。キルホーマンは2005年に設立されたばかりの若い蒸留所で、係員も「このウイスキーブームに乗って大きくなっていくわ。今もあの施設を新しく…」と言って、希望的な表情を浮かべていた。あのときの彼女の語気を思い出すと今でも胸が熱くなるのは、気づけば詩を書いて25年を過ぎてもなお「挑戦者」であり続けているからかもしれない。ちなみにLOCH GORMとは蒸留所近くの湖の名前。グリーンランドから越冬目的でやってきた多くの渡鳥がこの水辺にも集まっていて、スコットランドを、そしてそれぞれの命を旅する「放浪者」として島の夕暮れを共に見守ったのも、懐かしい思い出。
待てよ、「エドラダワー」があった。ああ、こちらも捨てがたいぞ。2020年1月下旬、コロナウイルスが世界で猛威を振るうその前夜、ぼくは妻と彼の地にいた。ぼくが愛するハイランド地方の冬の風景を妻にも体感してもらいたくて、風雨が吹き荒れる原野を数日ものあいだ走り続けたのだった。まさに西方最果ての島の野生を感じるその旅路で出会ったのが、かつてはスコットランド最小の蒸留所として知られ、街道から集落のあいだの曲がりくねった道を少し進むと見えてくる赤い扉が可愛らしい、風光明媚なこの蒸留所だった。それは、仕事を一日終えて、ふと息をついて座った食卓に小さく灯るキャンドルの明かりのような温かさで、妻の思い出のなかでも「あの可愛い蒸留所」として記憶されている。
不意に眠気が襲ってくる。時計を見ると、なんともう日付が変わっているじゃないか。
ボトルが並ぶ棚を前に、何を飲むべきか妥協せずに追求していたら、ついそれぞれのボトルにまつわる些細な思い出や感情にとらわれて、一滴も飲んでいない。明日は朝から詩の教室、深酒をするわけにもいくまい。うぬぬ、さすがにもう寝なければならない。が、まずい、こうなるとぼくの今宵の一杯は、結局、右手のコップにいま揺れている麦茶になってしまう!そ、そうだ、ウィスキーを麦茶で割って飲むのは、案外水割りよりもストレートに近い感覚で楽しめる、愉快な飲み方だ。
スコッチウィスキーにまつわる様々な芳しい物語を、どこにでもある麦茶=我が日常で割って味わったこの小一時間を「今宵の一杯」と締めるのは、なんとな〜く良い感じなだけのぼくらしくてすこぶる愉快な気がする。
ね、どうだろう、このへんでどうにか許してもらって、今日という一日をそろそろお暇しようじゃないか。