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「よき人生とは、世界の矛盾に嘆いても、  変化への希望が持てる人生」。 GOOD LIFE #05 小野邦彦

「よき人生とは、世界の矛盾に嘆いても、 変化への希望が持てる人生」。 GOOD LIFE #05 小野邦彦

「100年先もつづく、農業を。」そんな願いを掲げ、農産物の販売や、世界のコーヒー産地の課題をともに解決しながら生産・流通をサポートする「海ノ向こうコーヒー」など、農業に関わるさまざまな事業を行っている株式会社坂ノ途中。わざマートでも、海ノ向こうコーヒーのドリップバックを販売させていただくなど、代表の小野邦彦と平田はよき経営者仲間でもある。

飄々とした雰囲気を持ちながら、どこまでも熱く、それでいて物腰が柔らかい。けれどもその瞳の奥には、どこかで「諦観」のようなものを感じる時がある──。

京都大学を卒業し、外資系の金融機関に就職、そして起業したという小野。肩書きだけを見れば華々しい「エリート」に見える彼だが、どんな経験や哲学のもと人生を歩んできたのだろうか?

年齢・性別・職業問わず、今を生きるさまざまな人たちに「よき人生とは何か?」を問うていく連載企画「GOOD LIFE」。第5回は、株式会社坂ノ途中代表・小野邦彦に話を聞きに行った。

  • 執筆:あかしゆか
  • 撮影:若菜紘之
  • 編集:あかしゆか

魅力的な大人と出会えない幼少期だった

平田:小野さんは、奈良県ご出身ですよね。どんな子どもだったんですか?

小野:ぼくの出身の斑鳩町(いかるがちょう)は、人口が約2万8千人ほどの小さな町です。そんな中でぼくはいわゆる「跳ねっ返り者」で、幼少期はあまり大人たちに受け入れてもらえなかった思いが強いですね。めんどくさいやつとして扱われた記憶があります。

平田:どういうところで「めんどくさい」と思われていたのでしょう?

小野:なんでしょうね。いろんなことを流せなかったんです。ぼくは変に傷つきやすい子どもで、「こんなの変じゃない?」と思うことが小さい頃からすごくたくさんあって。たとえば「生き物の構造って変じゃない? 何かの命を食べてしか繋げない命って、構造上おかしくない?」とか、「外出すると虫や草を踏んでしまうけど、ぼくの外出にそんな犠牲を払うほどの価値なくない?」とか。幼稚園に入る前からそういう気質がありました。

「なんかそれ、ちゃうんちゃいます?」みたいなことをずっと言うから、先生からしたら腹立つガキンチョだったんでしょうね。ぼくにだけ厳しい先生がいて、あまりにもソリが合わなくて授業をボイコットしたこともあります(笑)。

平田:あはは。私も似たような経験がありますよ。私もめちゃくちゃ生意気な子どもで、世の中に対する疑問が多すぎていつも何かに怒っていました。ある時は、クラスという枠組みがおかしいと思って、学校にあった「何年何組」と書かれているプレートを折ってしまったこともあります。

小野:ははは! 平田さんらしい(笑)。

平田:案の定、先生にはめちゃくちゃ怒られました。でも、なんでこんなことをしたのかと問われても答えられないんですよ。衝動だったんです。学校が嫌すぎて。

小野:ぼくもそういう感じでした。実際は出会った大人はそんなに悪い人たちじゃなかったのかもしれないけれど、若気の至りに駆動されてる時は「こんな町から早く出てってやる!」と感じていました。

平田:でも高校までは同じ町にいらっしゃったんですよね。高校もあいかわらず嫌でした?

小野:高校ではまぁまぁ楽しいこともあったんですけど、やっぱり跳ねっ返り感は強かったと思います。おもしろがってくれる先生もいたけど、型にはめようとしてくる人が大半で。うまく折り合いをつけられない自分の扱いに自分自身も手を焼いてる感じでした。

都会で感度の高い家庭や学校だったら「この子は独自の感性があるぞ。個性を伸ばそう!」という感じになったかもしれないけど、当時の田舎だとそうはなりづらいんですよ。日本では多くの場合、感受性を削り、均していくための場所として学校があるじゃないですか。

ぼくもいい感じにまんまと削られて、中高生の頃は、大人に対する反感を持ちつつも、結局ちょっと派手好きで、モテたいし目立ちたいしみたいな、よくいる田舎の小生意気なガキンチョに仕上がっていきました(笑)。

消去法で進学した大学で、旅とビジネスのおもしろさに出会う

平田:大学からは、地元を出られたんですよね。

小野:そうです。高校時代のアルバイト先の大人たちや、分かり合えなかった学校の先生たちとの出会いを通じて、ぼくは「社会に出たくない」人間になっていました。それで社会に出ずに済む方法を考えたら、高校の同級生たちが大学進学を前提に勉強していることに気がついて。ぼくの家はそういう感じじゃなくて、大学進学する人が親兄弟先祖代々ひとりもいなかったんですけど、「大学に行くという手があるのか!」と思い、進学することにしました。

平田:じゃあ大学に進学したのは、何かになりたいとか、やりたいことがあったとか、そういう理由じゃなかったんですね。

小野:そうですね。社会に出ずに済む方法として選んだんで、何を学ぶか決めなくていい「総合人間学部」を選びました。

平田:でもそれで京大に入るのがすごい……(笑)。大学時代は、小野さん自身が変わるようなできごとはありましたか?

小野:たくさんありましたね。1回生でも2回生でも1ヶ月ほどバックパッカーの旅をして、それがとにかくおもしろくて。はじめたのには深い理由があったわけじゃなく、沢木耕太郎さんの『深夜特急』や、TV番組『進め!電波少年』の猿岩石に影響を受けてふらっと行ったものだったんですけど、性に合っていたんだと思います。

最初はタイとラオスに行ったんですよ。タイのバンコクからあがっていって、ラオスの首都ビエンチャンに入って、そこから北上してボートで国境を渡ってタイに戻ってくる。ド定番で、いかにも18歳がやりそうな旅(笑)。

2回目は、定番の場所と行きにくい場所でバックパッカーの生態を比べるという、ぼくが専攻していた人類学のテーマを持って行ったんです。タイ・バンコク周辺と、ミャンマー。ミャンマーは当時軍事政権下で割と行きにくい場所だったので、現地にいる旅人たちもバンコクとは差が出るんです。

小野:そうやってバックパッカーをしていると、中高時代に身についた見栄や社会性がどうでもよくなっていって、いろんなものが剥がれ落ちていきました。どれだけ明るく振る舞えるようになったとしても、ぼくが結局気になって仕方がなかったのは、幼少期に感じていた「なんで人間は、こんなにも迷惑をかけながらしか生きていけないんだろう?」ということで。それで興味を持ったのが、農業や環境の問題だったんです。

旅の中では、都市生活の負の側面がよく目につきました。とても無責任に見えて、逆にチベットの遊牧民の暮らしなどがすごく美しく見える。もちろんそこには課題がたくさんあるんですけど、ちゃんと循環できる社会の方がいいと強く感じました。

そうやって、旅の中で人生における大切なテーマを見つけられたのは大きなできごとでしたね。

はじめて「仕事はおもしろい」と感じた

小野:もうひとつ、大学時代にぼくの中で大きな出来事があって。

平田:なんでしょう?

小野:3回生になった時に、友人が学生ビジネスとして立ち上げた着物屋さんを手伝うことになったんです。ぼくは人類学の角度から、民族衣装としての着物に興味があったのでちょうどいいなと思って。そうするうちにお店を切り盛りする役割を担うことになり、アルバイトスタッフの採用や育成をしたり、商品選定をしたりと、いろんなことをしたんですね。

この時、人生ではじめて「嫌々じゃない仕事」をしたんですよ。ぼくはお金に余裕がない家庭で育ったので、高校時代からいろいろなアルバイトをしていました。でもそれは、基本「嫌々」というか、我慢代としてお給料をもらっている感じで。でも、着物屋のビジネスはすごくおもしろかった。「え、前向きに働くってあり得るん?」とびっくりしましたね。

平田:田舎で育つと出会う人の層がどうしても限られてしまうから、おもしろい大人に運よく出会えないと選択肢が閉ざされていくことが多いですもんね。最近は地方におもしろいプレイヤーが増えていますが、それでもまだまだ地方の課題だなと思います。

小野:そうですよね。だからこの時、おもしろいと思える仕事に出会えたことは本当にラッキーでした。自分の価値観を表現するツールとしてビジネスってめっちゃ力強いぞと思ったんです。

一方で、ぼくは基本的にひねくれているんで、すぐ負の側面に目が向くんですね。どれだけおもしろいと思っていても、次第にわだかまりを感じるようになる。「着物ってずっと使えるものなのに、売り続けないとお店として数字が上がらないっておかしくない?」「共感してくれた人に10枚、11枚って売り続けるのってなんやろう?」みたいに思えてきたわけです。

平田:ああ、わかる。ずっと、何かをはじめては疑問が出てきて壊しての繰り返しなんですよね。私もまったく同じです。

小野:そうそう。それで「ちょっとようわからん」と思って、すべてを後輩に引き継ぎ休学したんです。

その時に感じていたのは、前向きに働くという生き方があることを知れた喜びと、それでもすぐに飽きてしまう、負の側面に目がいってしまう自分に対する辟易した感情で。着物屋の経験から、自分でビジネスをやりたいと思うようになっていたけれど、ちゃんと考えないと、これからの人生で何をやっても、どうせすぐ理屈をつけて辞めてしまうぞと思ったんです。

だから、「自分の好奇心はどんなふうに磨耗していくのか」を知るために休学をして、終わりを決めずにバックパッカーの旅に出かけることにしました。

平田:いやあ、おもしろい。1度目と2度目とは違い、明確なテーマを持ち、自分の課題と向き合うために旅に出られたんですね。

小野:実際はもう少しライトな感じだったんですけど(笑)、今思うとそういう意味のある旅だったんだと思います。

バックパッカーの旅って、1ヶ月くらいだとちょうど良くて、少し好奇心が摩耗してテンションが下がってきたくらいのタイミングで帰るんですよね。頭の片隅では「帰り際、ちょっと俺だれてきてたよな」と思っているけど、友達に「どうやった?」って聞かれたら、「めっちゃおもろかったで! 価値観変わったからお前も行った方がええわ」とか言うんです(笑)。

だからその曲線のあとに、どこまで自分の気持ちが下がるのか、それとも持ち直すのか、それを知っとかないと起業するのはやばいんじゃないかと思ったんですね。長く旅している人の中には、明らかに好奇心がすり減って、世界に対してすごく無関心になってる人も結構いますから。

平田:実際に旅に出られてみて、どうだったんでしょう?

小野:ぼくもやっぱり旅の途中で一度テンションが下がりました。チベットが本当に感動することが多くて、クライマックスのような盛り上がりが自分の中にありました。そのあと、ヒマラヤをこえてネパールに入ると、気持ち的にもちょっと盛り下がるし、そこで体調も崩して。だけど、結局そのあとじわじわと、また好奇心や「楽しめる感じ」が戻ってきたんです。もう初心者でもないから、チベットまでの旅の前半の感じ方とは違うけれど、旅慣れた人なりの味わい方が身についてくるというか。

半年近く経ったあたりから、きっと自分の好奇心は大丈夫だと信じられるようになって。「帰ろう。1回就職して金貯めよう」と急に気持ちが切り替わりました。最初のエントリーシートをテヘランのネットカフェで書いた記憶が残っていますね。

社会のずるさを知るために就職した

平田:いやあ、おもしろい。それで金融機関に就職されたんですよね。起業も視野に入れていた中で、すぐに起業しなかったのはどういう理由だったんでしょう?

小野:着物屋をしていた時の「微妙なざらつき」みたいな感覚が気になっていたんです。学生がビジネスをやっていると、いろいろと問題が起きるじゃないですか。大人が信じられなくなるというか、優しくしてくれた人がいても、別の人からは「あんたら利用されてるだけやで」って言われたりする。

自分は世の中やビジネスのことを本当に何も知らないなと思ったんです。だから、短期間でお金を貯められて、社会を知ることができて、とにかくがむしゃらに働けそうなところで一度働いてみようと思ってフランス系の金融機関に行きました。

平田:なるほど。私は就職をほとんど経験せずに32歳で起業していて、そういう社会のずるさや賢さを知らずに来たから苦労したことも多くって。そのままでもビジネスを始められただろうに、そこで一度社会に学びに外に出られた小野さんの姿勢を尊敬します。

小野:あと、小野家は先祖代々お金に余裕がないんですよ。だからこそ機会もなかったし、大人になるまでに「お金がないから諦めろ」みたいなトーンのメッセージをたくさん受け取ってきたので、その逆、お金がある人生を覗いてみたかったというのも大きかったですね。

平田:実際に就職してみてどうでしたか?

小野:めっちゃいい経験でした。たとえば、すごくお世話になった大金持ちの偉いおじさんがいたんです。その人の家に遊びに行ったら、超巨大なテレビと高級ソファーが置いてある。でも、そのソファーを犬がひっかいてるわけですよ。

で、テレビの前にヘッドホンが置いてあって、「これ何に使うんですか?」って聞いたら、「俺阪神ファンなんやけど、子どもが中学受験でテレビつけてると怒られるから、ヘッドホンつけて阪神の野球中継見てんねん」って。画面近くてデカくてめっちゃ見にくくない?!って思いました(笑)。なんか、お金があっても大して暮らし方や不自由さは変わらないんだなと思って。

そういう経験を繰り返すうちに、変にお金に怯えないでいられるようになったことは、自分の中で大きい経験でしたね。お金をうまいこと使いこなそうと思えるようになった。会社員は、ある程度は成長が楽しくて続けましたけど、3年目に入った時にやめて、起業することに決めました。

悲観の中で、それでも変化し続ける。

平田:そうやって生まれたのが坂ノ途中だったんですね。小野さんは、幼い頃の姿勢もそうですけど、明るい性格の中にやっぱりどこか「諦観」や「悲観」みたいなものが混じっていますよね。

小野:そうですね。一段暗いところにいるような気がします。

旅をしている時に、たくさん遺跡を見たんですよ。最初は、遺跡ってなんかかっこいいなとか、なんなら遺跡をかっこいいと思う俺もかっこいいなとか思っていたんですけど(笑)。でも遺跡って要するに社会が終わった残骸で、どこに行っても社会は終わっているんですよ。歴史の中で、社会が続いた試しなんてあんまりないわけです。

だからぼくたちが「100年先もつづく、農業を。」と言っているのは、実は「終わってしまう」ことを前提にしていて。最近、いろんな企業が「100年先を」って、ずっと続く永続的な文脈で使っていますけど、ぼくは永続的なものなんて鼻から信じていないですね。

それでもせめて100年ぐらいだったら、いろいろ人間が知恵を絞ったら、なんとか続いていくことができるんじゃないの?といった感覚です。そして、そういう努力をするのが、今を生きる僕たちの責任なんじゃないかと思っています。

平田:どこまでも現実的ですね。

小野:そうですね。世の中には悲しい事がいっぱいあって、結構「無理ゲーだな」と思いながら生きていますが、そう言っていてもしょうがない。だから自分たちにできることをやろうという感覚があります。

たとえば去年の9月、ミャンマーが洪水で大変だったんですよ。ミャンマーのシャン州は、ぼくたちが「海ノ向こうコーヒー」でともにコーヒー栽培をさせてもらっている地域で、一緒に植林をしたりして、「植林すると山の保水性が高まり、洪水が起きにくくなるよね」とか、「枯れた湧水が最近復活してきたんだよ!」みたいな話をしてたのに、そんなことも意味がないくらいの大雨が降り、一夜にして町がびちょびちょなわけです。

さらにはクーデターが起き、「湧水が復活した」と嬉しそうに言っていた兄ちゃんは、反軍事政権としてリアルなファイトに忙しくてコーヒー栽培をする暇があっという間になくなったりする。友人が捕らえられたり、町が大変な状況にどんどん変化していく中で、「山の保水力が上がるから木を植えようね」なんてぼくらがやってきたことは誤差の範囲というか、暴力的にかき消されるわけですね。そんな絶望的な場面が、世界にはあまりにも多い。

平田:……それはもう、仕方のないことだと受け止められるんですか? それともやっぱり絶望はする?

小野:もちろんします。ゲゲって思ってますね。でも、それが世の中だとも思うんです。どこまでも、賽(さい)の河原の石積みというか……。

経営もそうじゃないですか。いい感じのチームができてきたと思ったらキーマンが辞めるとか、あるじゃないですか。

平田:ものすごくわかります。本当にそう。

小野:チベットに、「砂曼荼羅」というものがあるんですね。カラフルな砂でお坊さんたちがめっちゃ集中して曼荼羅を作るんですけど、儀式が終わったらザーッて捨てるんですよ。それを見て、やっぱり「執着を持たない」ことは、ひとつ生き方の要諦として大切なのかなと思って。ベストはもちろん尽くすんですけど、あまりとらわれすぎないようにはしています。

だからこそ、自分にとっての「よき人生」は、そんなめちゃくちゃな世の中でも自分自身が「変化していく」希望を持てることだとも思うんですよね。万物は流転していく。その中で「自分はこういう存在なんだ!確固たる自己を!」というのは、ぼくにとってはすごく生きにくいし、生き物としてもちょっと「ちゃうんちゃう?」という感覚がある。細胞すっかり入れ替わってるで、みたいな。

矛盾や絶望が多いこの世の中で、変わっていけること。それをちょっとおもしろがること。そういうのを大切にしたいです。

ここで言う「変われる」というのは、べつに成長志向ではないんです。季節がめぐるように、元の場所に戻ってきてもいい。でも実は、やはり以前とどこか違っている。日々の積み重ね、繰り返しの中で、うんざりすることもあるけど、気づけばちょっと違ったふうに景色が見えることがある。進歩なのか退化なのかを気にするのではなく、ただそこに起きた変化を、ささやかに祝福する。それがぼくにとっての「よき人生」なのかもしれないですね。

平田:なるほどなあ。幼い頃からの性質や、育った環境、旅でいろんな土地を見られたこと、そして環境というテーマに出会ったこと。全部がつながっていて、小野さんのビジネスや生き方の裏にある哲学に触れられて本当によかったです。今日はありがとうございました。

小野:ありがとうございました!

あかしゆか

1992年生まれ、京都出身。大学時代に本屋で働いた経験から、文章に関わる仕事がしたいと編集者を目指すように。 現在はウェブ・紙問わず、フリーランスの編集者・ライターとして活動をしている。2020年から東京と岡山の2拠点生活をはじめ、2021年4月、瀬戸内海にて本屋「aru」をオープン。

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