
予定のない突然の休日。おそらく私は今夜、酒を飲む。
朝からそんなことを考え続けているわけではないが、この予想は大抵外れない。部屋が明るくなりはじめた早朝、脳だけが先に起床し、携帯でニュースや知人の近況などを眺めながらぼんやりと思考を散らかす。せっかくの休日なのだからもっと眠ればよいが、歳とともに二度寝の機能は失われてしまうのか、もう眠る気配はない。いよいよ惰性に飽きる。脳が身体を鼓舞して起きあがり、朝食を作りはじめる。
小さければ4尾、大きければ3尾ほどの煮干しを小鍋に入れ、刻んだ大根を煮る。大根はなるたけ細い方が口触りがいい。味噌の量が足りているのか足りていないのか毎回不安になるが、大抵味噌汁は同じ味だ。適切な量は未だにわからないし、朝から味噌の最適解を探ろうとも思わない。
100gきっかりに小分けした冷凍ご飯をひとつ温める。少し物足りないけれど、朝に食べるにはほどよい分量としていつからか定着している。最後に食べる納豆のために白米の量を慎重に調整しながら、生卵や山椒の塩漬け、佃煮などと共にかきこむ。納豆ごはんはこの世で一番うまい。毎朝ため息が出るほどにうまい。日々そう思えるのだから、たぶん本当にそうなのだ。
健やかに育つようにと名づけられた名前に徹底的に抗うかのように、きわめて病弱な幼少期を過ごしたせいか、昔からジェームズ・ボンドやイーサン・ハントのような姿に憧れがある。前方の敵と戦いながらノールックで背後の敵を倒し、無闇に逃げているように見えても、その先には計算されたようにバイクや車、もしくは仲間が待っている。呼吸ひとつ乱さず、颯爽と難を逃れる。スーパーマンのような圧倒的な強さよりも、したたかな知性や、野性の嗅覚のようなものがフィジカルと同居している姿に、どこか大人の嗜みすら感じて、うっとりする。
そんな姿とは似ても似つかないが、私は数手先の自らの行動を読み、無駄な動きを排除しながら、朝食を片付け、食器を水にさらしている間に洗濯機を回し、掃除機をかけ、皿を洗い、拭き、家にある様々なものを所定の位置に戻す。決して何に急かされているわけではないのに——。全ての家事を終える頃に洗濯機が止まる音がしたりなんてしたら、その計算高い行動にうきうきしてしまう。決して何かに追われているわけでもないのに——。
そうして私はひと通りのことを済ませて、少し横になる。何もしない。意識的にそうしないと何かを始めてしまう私は、「何もしない」を「する」のだ。全身を脱力し、しばしぼんやりと過ごすが、10分と経たずに気づけば草木に水をやり、水槽の魚に餌をあげている。何もしないは案外難しい。
休日に何をするかを考えるのは、ワクワクよりも億劫が勝っていた。5年ほど前に始めたクライミングが、その問いに軽やかに応えてくれた。予定が空いたなら、壁に登ればいい。
多様な色や形のホールドが散りばめられた壁が、ジムの室内中に立ち上がっている。ホールドは滑らないよう表面にやすりのような加工が施されており、素手で握ればなかなか痛い。それを全力で掴んで登っていくのだから、随分と自虐的な競技だ。しかしながら、はじめは何ひとつできなかった課題が、ある日ふと登れるようになる。その小さな達成感を、飽きることなく欲し続けている。私は、終わらない壁を登らされている。
いくら沢山の人が登っていても、みな壁だけを見ている。誰と交わるわけでもなく、私も登る。時折、他者の登る姿を見て、口元に僅かに残る程度の声で「ガンバ」と呟く。
身体を使ったチェスと呼ばれるほどに、力任せでは登れない。登る前に緻密に計算した段取りを、身体で再現する。私の中の小さなイーサンが悪の組織に立ち向かう。無事にゴールに到達できても、何事もなかったような顔でその場を立ち去ることを私は忘れない。
2時間も登れば両腕が腫れ上がり、背中も悲鳴をあげている。ジムの外に出れば日も暮れかけている。汗を冷やす風が心地いい。
急遽待ち合わせることになった店に先に着く。席に座るなり、メニューも見ずに角ハイボールを頼む。おしぼりを持つ指はまっすぐに伸びない。並々と注がれたグラスが急かすかのように届く。冷えたグラスを握る手がジンジンと熱い。







