いつものお茶でなくとも
- 執筆:平田はる香
- 撮影:若菜紘之
- 編集:鈴木誠史
最初に見たのは、「六甲のおいしい水」だった。紙パックに詰められた「水」がスーパーに並ぶようになった。ペットボトルの水が登場するよりも前のことだ。蛇口をひねれば水が出るのに、こんなものを買う人がいるのだろうか?と思っているうちに、あっという間にペットボトルの水や緑茶がそこかしこで買えるようになって、家でお茶をいれるという習慣はまたたく間に消え去った。ここ30年くらいの話である。
中国で始まった茶の歴史
お茶の起源は中国だと言われている。薬用効果があると言われ薬として用いられたり、仏教徒が長く瞑想する際に眠気を防ぐ妙薬として用いたそうだ。4世紀から5世紀になると揚子江流域に住む人々の好みの飲料となったが、その形は現代のお茶とはかけ離れたものだった。蒸した茶の葉を臼でつき団子状にし、米・生姜・塩・みかんの皮・牛乳などと一緒に煮たもの=団茶と呼ばれるものが飲まれていた。
8世紀中頃唐の時代、詩人であった陸羽が「茶経」を記し、茶の決まりごとを作り、初めて茶の伝導が始まったことで茶の持つ意味が変化していった。茶の栽培、茶の立て方や水、沸かし方、茶道具、もてなし方などを細かく解説した。この書によって世界各国に茶が知れ渡ることになったという。この時の茶は、山の清水と塩と茶のみで煮出されていた。
その後、宗時代に抹茶が流行するようになり茶の文化が成熟していくが、13世紀のモンゴル民族の中国侵略を行ったことがきっかけになり風俗文化が変化し、中国での茶は、ただ茶碗に注いだ熱湯に茶葉を浸して飲むものへの退化した。
日本での茶文化の成熟
日本では729年に聖武天皇が僧侶に茶をふるまった記録がある。その後、最澄が種を持ち帰り茶園が広がっていったそうだ。
“ 茶の理想の頂点はこの日本の茶の湯にこそ見出される。・・・私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きるすべを授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、目に見える形式となったのであり、その機会に応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出すという神聖な役割を果たすことになる。 ”
- 岡倉天心『茶の本』より
だが、岡倉天心が海外へ向けて日本の文化を書いた「茶の本」で言うような精神性を持った茶文化は、また時代を経て日本でも失われつつある。お茶を飲用すること自体は風習として残っているが、「純粋と洗練に対する崇拝の念の具体化」はとうに消え去った。現代においても、天心が語った言葉の切れ端を感じることはできるのか?を今日は考えてみたい。
料理と器
料理を家で作る人ならば、器の一つも買ったこともあるだろう。料理が好きになれば、段々と器にも凝りたくなるものだ。自分が作ったおいしい手料理を見た目にも麗しく整えるには器の力が必要になる。どの料理をどの器に盛り付けるか。皿・お茶碗・汁椀・鉢・片口など、料理の姿形は器の印象で全く違ってしまう。形だけでなく作家物・プロダクト・古物・業務用食器・民芸品…などジャンルも枚挙にいとまがない。その中でどの料理をどのジャンルのどのタイプの器にどうやって盛るのかは、相当の熟練度を要する。こうやって器沼にハマる人も多いのだ。
わたしの場合、上記のような料理好きが高じて器好きになった口だ。よい器が欲しいが器にかけられるお金がなかったため、骨董市に通って少しずつ好みのものを探した。買ってきた古物が何であるかを知りたかったので、雑誌『太陽』やNHK『美の壺』などの古物特集などを図書館で借りてきては、買ってきたものを照らし合わせて産地や技法を覚えていった。
そのうちに業務用食器やプロダクトものの質実剛健さと価格帯のバランスの良さを知り買い集めたり、旅に行く度に民芸の窯元を訪ね歩き産地で民芸品を買っていった。世界の器にも興味が出てきてアンティークショップに通ったり、途中で陶芸教室に通い作ることを覚えたり、最後に作家に辿りつき収集を重ねて今に至る。
買い集めた器を売ったり、人にプレゼントしたことも多い。そうして残っていったものは今もお気に入りのものばかりである。力を抜いた料理を作るときは、業務用食器でワンプレートに。休日にじっくり作ろうとなれば、お気に入りの器に張り切って盛り付ける。ただ食べるときの盛り付けは「洗い物が少なくなるように楽したい」くらいのもので、そこに哲学は生まれない。だけど張り切るときは、今までの全器知識を動員して盛り付ける…というのは大袈裟ではあるが、そのくらいの感じは醸し出せる。つまりは、食卓にこれまでの価値観や歴史が曝け出される日がそれなのだ。
茶器に愛を集約させる
ペットボトルの茶は、ただ目の前にある乾きを潤すためだけに存在している。家庭で淹れる日々のお茶も、現代ではそのくらいの意味しか成さないだろう。もちろん茶葉から淹れることでおいしさが数百歩前進しているのは間違いないが、哲学や文化、岡倉天心の言う「純粋と洗練に対する崇拝の念の具体化」という茶へ込められたミッションは果たすことはできないだろう。
茶に必要な器の数は意外と少ない。あらゆる料理に対応する器を万全に用意するよりも数が少ないという点で、ハードルを低く抑えて揃えることができる。もし器が好きで買い集めた経験があるのならば、ぜひその知識を全て動員して茶道具を集めるという遊びをおすすめしたい。お茶を飲む習慣はなくていい。自分の器道をそこに集約させてセットを作るという新しい遊びのために、お茶を淹れるのはどうだろう。
お茶は喉の乾きを潤すという役割とすぐ飲めるという利便性に魂を売って、文化を捨て去った。今度は無駄に茶器を集めることから始めて、茶の文化哲学を改めて考えるのだ。
参考文献:岡倉天心 著 / 大久保喬樹 訳
『新訳 茶の本』(角川ソフィア文庫)