

ロックに出会って人生が変わった
平田:北村さんは、どんな子どもだったんですか? 生まれも育ちも児島のお近くなんですよね。
北村:はい。高校を卒業するまで、児島の隣の玉野市という街で育ちました。子ども時代はどちらかといえば活発だったと思いますね。中学は野球部で、高校はバドミントン部と空手部の掛け持ち。でもどちらも強豪校だったわけでもなく、それなりにがんばるという感じでした。
もう、本当に普通の人生だったんです。楽しくすくすく田舎で育って。

平田:そんな北村さんがどうやって今の北村さんになっていったのか、すごく気になります。
北村:最初に覚えている人生の転機は中2です。中学2年生の時に、もともとXJapanだったhide(ヒデ)を知って。『ROCKET DIVE』という曲と出会った時に、全身に衝撃を受けたんです。それが初めての音楽との出会いでした。
平田:どうやって出会ったんですか?
北村:カラオケに友達と行った時に、友達が歌っていたのを聞いたんです。
平田:ヒデの歌声じゃなかったんですね?(笑)
北村:そうなんです。ヒデの歌声を聞いたわけじゃないんだけど、その友達の歌声ですら衝撃を受けるほどの出会いでした。
カラオケだから、画面に歌詞がうつるじゃないですか。「だいたい同じ毎日」っていう歌詞から始まるんですけど、まさに中2ぐらいからなんとなく「毎日同じで退屈だなぁ」と思っていたんです。だからものすごくダイレクトに影響を受けて、「このままじゃあかん!」と思ってすぐにギターを買いに行きました。
平田:カラオケで知ったあと、ヒデさんのCDを買って聞いて……とかではなく、急にギターを買いに行ったんですか?
北村:そうです。たしかに、変ですね(笑)。普通だったらCDを買ってリスナーとしてヒデを追うっていう形なのかもしれないけれど、なぜかそのままギターを買いに行きましたね。
それで同級生を集めて「エックスジャポン」というバンドを結成しました。
平田:中学生ですよね……!?
北村:はい。お兄ちゃんがベースをやっていて少しだけ触ったことがある子と、お父さんがドラムをやっていてちょっと叩いたことがある子が同じ仲良しグループにいたので、その友達ととりあえずバンドを結成して練習して、初ライブは町の集会所で「紅(くれない)だーーー!」ってやって。
平田:じゃあそれは、野球部で部活もしながら、放課後に自分たちで集まってバンドをやっていたということ?
北村:そうです、そうです。結局高校まで続けました。
平田:北村さん、それは全然普通じゃないですね(笑)。

飛び出した東京で
平田:高校を卒業してからは、どんな進路に進まれたんですか?
北村:東京に上京して、テレビや映画、大きなコンサートなどの制作を学ぶ学校に通っていました。
ヒデと出会ったくらいの頃から自分の中で新しい世界が広がっていって、すくすく育ちながらも退屈な田舎に対して少し物足りないなという気持ちも出てきていたんです。当時は瀬戸内も今ほど盛り上がっていなかったから、「高校を卒業したらこんな田舎絶対出ていってやる!」と思っていました。
専門学校も、「そこで学びたい」というよりは、どちらかというと「児島を出ていきたい」という気持ちから選んだ気がします。両親には「好きにしていいけどお金は出せないから、何かやるなら自分でどうにかやって」と言われて。

平田:学校のお金はどうしたんですか?
北村:当時、「新聞奨学生」という制度があったんです。新聞屋さんで住み込みで働きながら学校に通う制度で、新聞配達の給料から学費などを出して、残った数万円をお給料としてもらうっていう。「お金はないけど東京の学校に行きたい」と高校の先生に相談したら、こういう制度があると教えてもらったと記憶しています。
でも、2年制の学校だったんですけど結局1年で辞めたんですよ。
漠然となんだか違うなあと思っていたのと、新聞奨学生という形がやはり少し厳しくて。朝の2時起きで配達して、7時ぐらいに家に戻って、そこから学校へ行って、授業が終わって、夕刊を配達して……という生活で、あまり勉強できる感じでもありませんでした。
だから学校をやめて、一度児島に帰ってきたんです。でも、その時は「いったん」帰ってきた感じで、東京にまた行きたいという気持ちが強かった。ご縁があったテレビ局でADをやりながら1年間お金を貯めて、そこからまた東京に出ましたね。それが20歳の頃かな。

平田:じゃあ、東京という土地には魅力を感じていたんですね。
北村:そうですね。こっち(児島)にはないものがいっぱいあって、ただただ楽しかった。でも忙しくて全然遊べていなかったから、まだ何も知らないというか、外からなんとなく楽しそうだなって見てる感じでした。
平田:二度目の東京はどうだったんですか?
北村:バイトしながらふらふらしていましたね。一番長かったのは飲食店。働いている人がとても面白い人たちばかりだったんです。ダンサーやアートや植物に関わる人など、同年代で表現をしている人たちが多くて、そこで出会った人たちとはいまも交流がありますね。
そうやってずっと東京の真ん中で、ただ刺激を浴びてあわあわしてる間に5、6年経っていた。本当にあっという間でした。
閉塞感の中でディジュリドゥに出会う
北村:でも25歳くらいの頃から、東京の生活が少ししんどくなっていったんですよ。刺激はいっぱいあるんだけど、虚無感というか、ずっと暗いトンネルを歩いてるような感覚。「自分って何なんやろう」「楽しいけど、このままでいいのか?」という問いが頭の中をぐるぐるし始めました。やりたいことも明確になくて、そういうものと出会いたいなと思っていたけど見つからなくて、結構しんどい時期が続いて。
その時に、たまたまオーストラリアのアボリジニの民族楽器である「ディジュリドゥ」に出会ったんです。そこからまた人生が変な方向に動き出していきました。
平田:ディジュリドゥに出会ったのは、どういう場所で?
北村:もともと民族音楽が好きだったので映像を見ていたら、たまたまオーストラリア人のミュージシャンの方が演奏している映像を見つけたんです。そこでまた衝撃を受けた。探してみたら東京にひとつだけ専門店があって、すぐに買いに行きました。
平田:ギターの時と一緒だ。衝撃を受けてから行動までのスピードが本当にはやいですね。
北村:その専門店の店主さんがディジュリドゥの教則CDや教科書を作っていたので、それを見ながら独学で練習しました。誰かに習ったわけではなく、もうひたすらに練習の日々。
当時は下北沢のボロボロの、家賃2万円の風呂なしアパートに住んでいたんです。壁が紙みたいで、隣の部屋の音がすべて聞こえるぐらいペラペラな家。「ここではちょっと吹けれんな」と思って外の公園で吹いてたりしたんですけど、世田谷区の住宅地でディジュリドゥを吹いている自分を俯瞰して見た時に、滑稽で「なんだこれ?」と思ったんですよね。
すごく原始的な楽器を、都会で必死で場所を探していて吹いている自分を見て、「何やっとるんやろうな」と思って岡山に帰ることにしました。

北村:帰ってきてからは、ひたすらディジュリドゥを吹いていました。それこそbelkのある王子が岳の山の上なんかで。
平田:その時は、児島に帰ってくるのが2回目じゃないですか。少しは児島と出会い直した感じはあったんですか?
北村:いや、まだなかったですね。当時はディジュリドゥのことしか考えていませんでした。アルバイトしながらずーっと吹いていて、児島に戻って1年経ったぐらいの時に、もっと追求したい気持ちが高まったのと、アボリジニの暮らしにすごく興味が出てきたんです。
彼らはどんな暮らしをしていて、どんな生き方をしているのかな?って。知りたいし、一緒に生活したいと思った。だから、オーストラリアに行くことにしました。
平田:行動力がやっぱりすごい……。
北村:僕は何かに憧れたり惹かれたりすると、それに飛び込みたいというか、入り込みたいような感覚になるんです。知識や情報を調べるというよりは、肌で感じたい。だからとりあえず行ってみようと思って。
アボリジニはオーストラリアのいろんな場所で暮らしてるんですけど、伝統的にディジュリドゥを吹く部族はすごく限られていて、北にあるアーネムランドというエリアにいます。でもそこは、アボリジニ以外は許可がないと入れないような場所。昔からの暮らしが守られていて、狩りもするし、儀式も行われている。
まずはそこを目指そうと思ったのですが、何も準備せずにオーストラリアに着いたらアーネムランドが実はめちゃくちゃ遠いことに気がついて、有金をはたいて車を買って、何千キロ先にあるアーネムランドを目指す旅が始まりました。車でお金を使い果たしたので演奏をしながら日銭を稼いで、英語も喋れなかったので、とにかく1人でキャンプしながらなんとか旅を続けていきましたね。
平田:す、すごい……(笑)。
北村:でも、半年くらいかけてようやくアーネムランドのエリアに着いたけど、結界みたいなものを感じて入れなかったんです。だからアーネムランドから一番近くのダーウィンという町に滞在しながら、情報を集めることにして。
そんなある日、町でたまたまアーネムランド出身の青年と出会いました。アーネムランドのヨルング族という部族が伝統的にディジュリドゥを吹いてきた代表的な部族で、顔を見るとなんとなく分かるんですよ。
「もしかしてヨルング族?」「うん」「僕は日本という国から来て、ディジュリドゥをやってて、もっと上手になりたいからよかったら教えてほしい」「いいよ」。
そんな感じで仲良くなって、それからは普通に遊んだり、キャンプに行ったり、ディジュリドゥを教えてもらったりして。彼らの文化なのか、すごく仲良くなると「家族にならないか」と言われるんです。彼がそう言ってくれて、アボリジニとしての名前をつけてもらって家族になって、彼が里帰りする時に一緒にアーネムランドに連れて行ってもらって1ヶ月半ほど彼の家族にお世話になりました。
夜ご飯を食べる時には、まず森の中に入ってカンガルーを捕まえるところから。一緒にディジュリドゥを作ったり、川で泳いだり、ダラダラしたり……。
そういう生活をして、ビザの関係で日本に帰国しないといけなくなってお別れをしましたね。オーストラリアの旅は28歳から30歳の2年間だったかな。岡山に帰ってきてからは、ディジュリドゥのバンドを組んで、岡山を拠点としていろんなカフェや美術館などでライブしたりしていました。

belkをはじめて
平田:この頃って、北村さんは30歳になっているでしょう? 周りの人を見ると、出世したり、結婚したり子どもを産んだりしてたんじゃないですか?
北村:それはもう、立派に(笑)。
平田:社会的なことで焦ったり、何か感じたことはなかったんですか?
北村:何も考えていなかったんだけど、やっぱり少しずつ窮屈さを覚えるようにはなっていましたね。オーストラリアでは演奏をしながら風のように生きていたのに、日本に戻ってきた途端にそれだけじゃ生きてはいけなくて。引っ越しのアルバイトをしたりしながら、ついて回る現実があって。
しかも日本に帰ってきた時には髪もすごく長くて服装も旅人っぽかったから、余計に浮いていた感じもあったんです。オーストラリアでは裸足でいることも多かったから、裸足がすごい気持ちよくて、近所のスーパーに裸足で行ってみたらめちゃめちゃ変な目で見られたりして、「あ、日本ではだめなんや」みたいな。
考えるたびに窮屈になって、そんな時に王子が岳に行くと救われました。小さい頃からすごく好きな山だったんですけど、登って横の丘をパッと見た時に、あらためて「すごいいいところやな」って。この場所だったら、自分が自分のままで息ができるような気がした。
──で、隣を見たら廃墟みたいな建物があって、それを見つけたのが第三の人生の転機ですね。雷がまた落ちたんです。「ここでなんかやりたい!!!」と思って、その足で役所に行きました。

平田:雷が落ちてからの行動のスピードがやっぱり異常ですね。
北村:でもその時はまだ何屋さんをしたいとか決めてない状態です。だから、「まだ何も決まっていないけどあの場所で何かがしたいんです、お借りできますか?」って。
何度も断られたけど諦めきれんくて、何回も通ううちになんとなく「カフェだ」とイメージが固まっていって資料を作ったりして、そうしたらだんだんと市役所の中でもおもしろがってくれる人がでてきて、なんとか借りられることになって生まれたのが「belk」です。

平田:どうして「カフェにしよう」と思ったんですか?
北村:僕は、何もできなかったんですよ。料理人だったらレストランにしようとか、パティシエだったらお菓子屋さんにしようとかあると思うんですけど、自分が届けたいものは物質的なものではなかった。僕が届けたかったのは、この自然の中で過ごす時間とか体験とか、そういう目に見えないものでした。
そう考えた時に、カフェとか喫茶店って、お菓子やコーヒーが商品としてあるけれど、一番の商品はそこで過ごす時間とか、目に見えないものじゃないですか。それは自分がやりたい業態としてすごく近いと思ったんです。
平田:なるほどなあ。北村さんって、「目的」を見つけた時に完遂する能力がすごいですよね。ディジュリドゥをしたいから児島に帰ってくるとか、アボリジニに会いにオーストラリアへいくとか、カフェを始めるために役所に通い続けるとか。目的を見つけるのは衝動かもしれないけれど、それを完遂するまでがストイックでものすごくて、ビジネスマンっぽい側面があるのかもしれませんね。目的嗜好性が強いって、経営者の素質のひとつではありますから。
北村:自分ではそんな気がしないですけど……(笑)。でも、どこかのタイミングで「自分は旅人とは違うな」と思ったタイミングはあったような気がします。何かをちゃんと積み重ねていきたいなと思うようになった。自分はずっと旅をしている感じだと、きっとどこかでつまらなくなってしまう。そんな感覚があって、そのためにはちゃんと根を張る必要があると漠然と感じていた。その「根」がようやく見つかったのがbelkだという実感はありますね。

「野」とは「自分らしさ」
平田:北村さん、やっぱりかなりおもしろい人生を歩まれているなあと思ったのですが、北村さんにとっての「よき人生」ってなんでしょうか?
北村:うーん……。ずっと考えていたけど、難しいですね。
平田:では、自分の人生をよき人生だなと思えていますか?
北村:それは、思います。
平田:そう思えるのはなんででしょう?
北村:自分の道を歩んでいる感覚があるから、でしょうか。何にも自信はないけど、自分の道を、自分の人生を、自分の物語を歩いているっていうのだけは自信を持って言えるかな。
平田:北村さんの人生には、「自分の道を阻むもの」がないですよね。ふつうの一般社会に生きていると、衝撃を受ける出来事があったとしても、それを阻むものがたくさんあると思うんですよ。親の反対とか、世間の目とか、自分のプライドとか、「こう生きたい」と思ってもなかなか素直に行動するのが難しい。でも、それをものともせず突き進む感じがすごいです。話を聞いていると、一度も他者とか社会に身を委ねたことがないじゃないですか。北村さんの自信のありかたが素晴らしいと思います。
北村:自信はないんですが……。でも、幸せな人生だなとは思います。
belkで一番大事にしている言葉に、「暮らしに自然を、心に野を」というものがあるんです。その「心に野がある」状態は、よき人生を歩む上でとても重要な気がしていて。

平田:「心に野がある」とは、具体的にはどういうことですか?
北村:僕が思う「野」って、めちゃくちゃ噛み砕いていくと「自分らしさ」だと思うんです。
小さい頃、僕はずっと「自分らしさ」という言葉が嫌いで、「このままじゃダメだ!」と思っていました。だから東京に出たりと、どこかで成長思考があったり、ありのままの自分を受け入れられなかったんだと思います。
でも、オーストラリアでの経験を経てbelkを始めてから、音楽家の方や作家さんなど、自分の道を生きている人たちに本当にたくさん出会いました。そういう人たちと出会って一緒にいろいろとしていく中で、「自分らしくいられる」ことが何よりも可能性がある状態で、すごく美しいものだと思うようになったんです。
そういう人たちは、縦の構図で生きていない。何かと比べて自分は劣っている、成長している、上だとか下だとか関係なく、自分の物語、自分の人生を生きている。
そして、そういう「野」を心に開いてくれるのが自然だと思うんですね。僕がオーストラリアから帰国してすごく心が窮屈になった時に自然の中で心が健やかに開いていく感じがしたように、現実的なこと、人間的なことが自然の中に入るとすごいちっぽけなことに思えたり、どうでもよくなるんです。自然の中では、自分らしさに立ち戻れる。
平田:なるほどなあ。

北村:そしてその「自然によって野を開いていく」ことは、非日常な体験だけではなかなか難しいとも思います。日常として、日々触れ合っていく存在として自然が暮らしの中にないと、真の自分らしさは開かれていかないと思うんですね。
belkは全国から人が来てくれるようになってきたけれど、よく言われるのは「日常から離れた穏やかな時間でした」「非日常な体験でした」ということ。もちろんそれはうれしいけれど、今のままじゃダメだなあとも思うんです。僕がやりたいのは、いろんな人の暮らしの中に、あたりまえに自然がある状態。そしてその先に、いろんな人の心に「野」が広がる世界です。
だからこれからのbelkでは、そういうことをもっと伝えられるといいなと思います。
自分の「野」を大切にしながら、人々の心にも「野」を開いていく。それが僕の人生で、belkを通してやりたいことですね。







