
ちょうど、人生を考え直す時期だった
平田:中川さん、はじめまして! 以前からお名前はよくお聞きしていたので、ようやくお会いできてうれしいです。
中川:こちらこそ、お会いできてうれしいです。そして初対面が「よき人生」についてのお話だなんて。
平田:不思議ですよね(笑)。
中川:実はね、まさに今日から自分にとっての「よき人生」をあらためて考えていこうと思っていたところだったんです。というのも、昨日が誕生日で。
※取材と撮影は2025年10月に実施された
平田:わあ、おめでとうございます!
中川:これまでの人生は、仕事もプライベートもいろいろ詰め込んで日々忙しく過ごしていたのですが、岡山で運営していたギャラリーを閉じたり、大きい仕事をいくつかお断りしたりして、一度これからの人生についてふたたびゆっくりと考える時期に入っていたんです。だから、今日このタイミングでこの取材をしていただけることをとてもうれしく思っています。
平田:それはよかったです。ぜひ、中川さんの人生のお話を聞かせてください。
ほとんど人と話さない幼少期だった
平田:まずは、中川さんの幼少期の頃のお話からお伺いしてもいいですか? 岡山移住以降のお話はよくお見かけしますが、幼い頃のことはあまりメディアでもお話されていませんよね。
中川:たしかに、そうかもしれません。幼少期……小学2年生頃までは、ほとんど人と話さない子どもでしたね。
「喋れなかった」というよりは「喋らないほうがいいと感じていた」、と言ったほうが近いかもしれません。うまく言葉にしづらいのですが、私は幼い頃から周囲の人の考えや気持ちを感じすぎてしまうところがあって。
小学校でも幼いながらに、社会の意地悪さとか、巧妙さみたいなことを感じる機会があるでしょう? たとえば、弱い子に影では意地悪をしているのに先生には可愛がられるのが上手とか、表と裏の顔が違うとか。そういう人たちがたくさんいるんだということに気づいてしまったから、できるだけそういった物事とは距離をおきたくて、人と関わるよりも、本を読むことに夢中になっていたような記憶があります。
平田:「話さない」ことが、中川さんにとってのうまく生きていく術だったんですね。
中川:そう。でも親からすると、「正子ちゃんは今日も誰とも話さずに隅っこで本を読んでました」などと先生から報告を受けるわけだから、心配ですよね(笑)。私は全然気にしてなかったんだけど、大人たちが、輪に入れるように気を遣ってくれたり、心配していろいろ働きかけてくれたような記憶があります。心の底ではほっといてくれていいのになあ、とずっと思ってたんだけど。
平田:その感覚、すごくわかります。私も小学校で価値観が合う人に出会えなくて、ずっと端っこで本を読んでいましたから。
中川:同じですね。小2の半ばには、先生が私を学級委員にしようと言って学級委員になりました。今思い返してみると、おそらく「役割」を与えることでコミュニケーションスキルを育ませようとしてくれていたのかも。私は長女で真面目なところがあるというか、求められたことはちゃんとやりたい性格だったから、学級委員を引き受けて、そういう役割を身に纏ううちに後天的にコミュニケーションスキルを身につけていった感じですね。
今も、人とコミュニケーションをとるのが上手ですねなどと言っていただくことがあるんですが、自分の中での認識としては根本の性格は変わっていないんです。当時の「いろいろ見えるなぁ」みたいな感覚は消えずにずっとあって、その周りを、後からつけた筋肉が取り囲んでいるような感じがするんですよ。
「期待にこたえる」ことが多かった
平田:中学や高校では、どんなふうに育っていったんですか?
中川:中学では部活で真剣に陸上をやっていました。種目は800メートル走で、県大会にも出て。
平田:すごい!
中川:でも、好きでやっていたわけではなくて、走ってみたら速く走れちゃって、先生にやったほうがいいと言われてやっていた、という感じ。
勉強も好きで、クラスでいつも一番でした。でもそれで褒められるけどまったく嬉しくはなくて、「先生を落胆させちゃいけないな」という気持ちがずっとありましたね。
平田:中川さんの幼少期は、ずっと「求められる」ことに器用に応えている感じがしますね。能力もあるし、それができちゃうから期待される。でもどこか冷静に自分のことを俯瞰している感じがとてもめずらしいように思います。
中川:たしかに、いつも冷静に一歩引いて自分を捉えていたような気がしますね。責任感もあるし、同じ空間にいる人が居心地悪そうにしていることがすごく苦手だから、私が求められている役割をしないことで誰かが悲しそう・不満そう・イライラするような状態はどうにも絶対に避けたくて。自分の気持ちよりも、「私はこれをやったらいいんだろう」といった感覚で幼少期は動いていたかもしれないです。
「people pleaser(ピープル・プリーザー)」という言葉があるんですよ。「喜ばせ屋」といった意味で、最近はあんまり良くない意味で使われていて、八方美人とか、人のニーズにばかり答えて自分を後回しにする人みたいなニュアンスの言葉だと私は捉えています。でも、私も幼い頃はそうだったのかもしれない。自分の気持ちを押さえても、みんなが満足するんだったらいいや、といったような。自分の素直な欲求をはっきりと伝えて、みんなが右往左往したりすることがとにかく苦手でした。
今はまるきり逆で、言いたいことはちゃんと言って、やりたいことを全部やれたらいいなと思って生きていますけどね。
打ちのめされた大学時代
平田:中川さんが、どうやって少しずつ変わっていったのかがとても気になります。
中川:一番のアイデンティティの変化のきっかけは、大学時代ですね。
大学は、私立の女子大の英文学科に進学しました。大学時代は一転して、徹底的に落ちこぼれという感じだったんです。勉強が好きで真面目に積み上げてきた人たちと、小手先でパパッと何となく勉強してきた私の間には大きな開きがあって、かなわないなぁと思ってしまって。
しかも女子大に入ってみたものの、その環境も当時の私には向いていなかった。いろんなことが重なってなかなかうまく学校に馴染めずに、次第に外に意識が向いていったんです。
外の世界を広げようと思って、大学の最寄り駅の居酒屋でバイトを始めました。そしたらそこには美大生の人がたくさんいて、それはそれはみんな個性的で、私には輝いて見えたんですね。
大学で、何をやっても学力では敵わなさそうだなという中で、自分がみんなに勝るものがあるとすれば個性みたいなものかなと思って、それまでも古着を着たり、髪の毛を派手な色にしたりして個性を出していたつもりだったんだけど、美大の人たちに会ったら、もう私なんて霞むほどにみんな個性的で……。そこでも打ちのめされました(笑)。
平田:勉強でも個性でも、一度「敵わない」と打ちのめされたのが大学生だったんですね。
中川:そうなんです。今までなんとなく人の期待に応えて頑張ってやってきたけれど、陸上もすごい好きだったわけではなく、勉強もある程度できたくらい。もっとすごい人がいくらでも大学にはいて、自分には何もないなと打ちのめされて、びっくりしちゃったんですよ。「自分ってこんなに何もなかったんだ。結構一生懸命やってきたのに、自信を持って好きだと言えるものは何もないんだな」って。
中高生の時は、むしろ隠れたい、これ以上注目しないでほしいっていう気持ちがあったんだけど、大学では逆に何もない自分がとてもコンプレックスになりました。その頃から「自分とはなんだろう?」みたいなことを考え始めた気がします。
平田:その葛藤はどうやって乗り越えたんですか?
中川:まずは海外に行こうと思ったんです。奨学金をもらってアメリカにでも行って、ブレークスルーしよう。とにかくここではないどこかへ、という感じで。自分の居場所を作りたい、自分自身を証明したいという気持ちで、市の交換留学制度で英語も全然話せないままアメリカのカリフォルニアに行きました。
平田:そうして行った海外生活はどうだったんでしょう。
中川:見事なまでに言葉が通じなくて、本当に大変でしたね。アメリカの中でもカリフォルニアは陽気な土地柄なので、自分が思っていることを言わないで察してくれるなんてことは本当になくて、何も話さないと透明人間みたいになっちゃう。
それまでコミュニケーションの場数はある程度踏んできたものの、全然アメリカでは通用しなくて、悔しい思いを毎日していました。
当時は「食べること」でしかその場にいることができなかった。「おいしい」と言って食べていると、みんな「よかった~」と楽しそうにしてくれるから、なんとか誰かと同じ場にいるためのスキルとしてひたすら食べていたんです。本当は食べたくないのに食べて、「正子はよく食べるね」というキャラクターを演じて。3か月で10キロ太って、真ん丸だったんですよ(笑)。
写真に出会って
平田:今の中川さんからは想像できないです。そうか、そういう状態の時に、写真に出会われたんですね。
中川:そう。最初の3か月くらいは、食べるだけでなんとか人と一緒にいる、みたいなことをやっていたんだけど、写真が少しずつ変えてくれたんですよ。たまたま留学前にカメラを買ったからとフォトグラフィーのクラスを受けていたんです。
そのクラスでは毎回課題があって、テーマに沿った写真を撮って毎回みんなの前で発表しなきゃいけなくて。それがすごく語学の練習にもなったし、何よりコミュニケーションのブレークスルーになりました。
課題を発表するときは、みんな私を見てくれるし、私がこういう意図でこんなふうに撮ったと言えば、大いにフィードバックをくれる。もしかすると、ちょっと物静かな日本人の女の子を盛り上げてあげようという親切心もあったかもしれないけれど、毎回「正子は本当に才能がある」ってカリフォルニア式にべた褒めしてくれるんですよ。
はじめて、透明人間だと思っていた自分の存在が可視化されるようになって、自分の表現が伝わったり伝わらなかったりする経験を経て、写真って、こんなふうに人と繋がることができるんだと。
平田:それまで食べることでしかできなかったコミュニケーションが、写真という、あたらしい人とつながる手段を見つけられた瞬間なんですね。
中川:そう。クラスメートとお互い撮り合うようになって、友だちになって、その子がグイグイと引っ張ってくれたおかげで友人が増えて一緒にグループ展みたいなこともできたりして。
言葉が詰まったとしても、写真を撮り合えばなんとかなる。ミュージシャンの人もよく、言葉が通じない国でも音楽があれば通じ合えるって言うじゃないですか。そういうことが写真でもできるんだと思い、どんどん夢中になっていきました。
平田:もうその時に、写真の道に進みたい気持ちも芽生えていたんですか?
中川:留学が終わるまでは、先のことは全く考えていませんでした。でも、ちょうど帰国するタイミングで同い年のみんなは就職活動をしている状態で、「そういえば、就職どうしよう……」と帰りの飛行機で考えていた時、「あ、私フォトグラファーになろう」と決めたんです。
平田:すごい決断力!
中川:飛行機の隣の席にたまたま日本人の素敵な女性がいて喋っていたら、彼女は帰国してファッションデザイナーになるという夢を固めていてそれを熱く語ってくれて。そのかっこよさにつられて、「私はフォトグラファーになろうと思うの」と口から自然と出てきました。心の中で「わあ、言っちゃった! ……でも、確かに!」と自分でもすごく腑に落ちたんですよね。
東京に揉まれた20代
平田:「フォトグラファーになる」と決めて日本に帰ってきて、就職活動もしないですぐに写真の道に進まれたんですか?
中川:そうですね。「フォトグラファーになりたい!」とありとあらゆるところで言いふらしていたら、知人が雑誌の編集長を紹介してくれて、その方のつながりで知り合ったのが、その後所属することになる事務所の社長でした。もちろんアシスタントからだったけれど、本当にお世話になりましたね。
平田:私もDJをやったり雑誌の編集部で働いていたから少しわかりますが、東京で、アシスタントで写真の仕事をしながら生活するのはとても大変そうですね。
中川:そうですね。東京ですごくいろんな経験をした20代でした。寝る間も惜しんで、働いて、遊んで……。楽しいことだけじゃなかったです。
この頃には気づいていたけれど、私にはどうやら、刺激や冒険が大好きなのに繊細だという性質があって。自ら刺激的な場所に乗り込んでいくのに、そこでいろんなことが見えすぎて疲弊したり、ちゃんと傷ついたり、若さや女性ということを消費されていると感じる瞬間に自尊心がズタズタになったり……。
今思うと、かなり不安定なところもあったんだと思います。当時から付き合っていた夫が「あの頃の正子は本当にすぐに消えてしまいそうだった」って今でも言っているくらい(笑)。
中川:でも、そこでいろんな人と出会い、いろんな仕事を経験できたからこそ、自分にとっての写真というものの存在や、世界の捉え方が少しずつ確固たるものになっていったのかもしれません。自分1人だったらきっと見つけられなかった。
写真というやっと出会えた自分の表現手段を通じて、楽しいことや傷つくことを経て自分の輪郭を確かめていった東京生活でした。
平田:そのあとに、岡山に移住されるわけですよね。
中川:そうです。東京で夫と出会い、東日本大震災を機に2011年に岡山に引っ越しました。移住する少し前に息子が生まれたこともあって、仕事がぐっと減り、子どもがいるから動きが悪くなり、このあたりも人生の転換期でしたね。
でもコロナ禍くらいまでは、子どもを預けたり、千葉の実家に帰省したりして、東京の仕事はずっと続けていたんですよ。子育てが落ち着くたびに忙しくして、また働けなくなったら落ち込んだり働き方を見直したりして……。きっとその頃の私はまだ、東京の煌びやかな世界にどうにかして片足を置いておきたかったんだと思う。
岡山で、その土地に根を張りながら軽やかに生きる人たちに出会って少しずつ自分の価値観が変わっていくことを感じながらも、華やかな仕事の依頼が来ると飛びついてしまう自分がずっといました。でも、どこかでバリバリとクライアントワークをする自分に違和感を感じるようにもなってきていた。
そういういろんな時期を経て、心から本当に「もっと、自ら生まれ出るものを大事にしたいな」と思えたのが、今なんです。震災やコロナ禍といった外的要因ではなく、自分の中で、そろそろ区切りをつけようと思えているんですよね。
よき人生とは、光が見えるまで歩ける人生。
平田:中川さんは、その持ち前の冒険心と繊細さ、器用さで、いろんなところをいったりきたりしながら自分自身をずっと確かめてきた。そしてちょうど今が、本当に自分自身を理解できてきたタイミングなのかもしれませんね。
そんな中川さんにとって「よき人生」とはどういう人生だと思いますか?
中川:そうですね…。ごく当たり前の暮らしを毎日して、自分に嘘をついていない瞬間が多ければ多いほど、いい人生だと思っています。自分にすなおな状態が何よりも大事。
「自分にすなお」とは、小さい喜びを自分で小さく手にしていられるようなイメージです。冒険好きな血のせいで、つい華やかで大きいことに寄っていきがちなんだけど、そういうことを何度も試したあと、結局いつも戻ってくるものはなんだろうと考えると、手のひらにある小さな喜びだったから。
たとえば、植物に水をやって、枯れた葉っぱを1個1個とって、また綺麗な植物に戻したり。レコードをひっくり返してじっくり聞いて、「このアルバムはだからこういう構成でできているんだ」と気づくような音楽を楽しむ時間を持てたり。そういう普通の暮らしの中で見つける幸せは、どんな時でも色あせないんですよね。
平田:わかります。けれど、小さな幸せを見つけて大事にし続けることって同時に難しいじゃないですか。おもしろそうなお仕事が来たらやりたいと思ったり、つい忙しくしてしまったり。見失う瞬間は今でもありますか?
中川:もちろんあります。たぶん、レコードもそのうち飽きたりするんですよね(笑)。また「冒険したい!」って足を突っ込んじゃう時もあるんだと思う。
でもそんなときでも、私には写真がやっぱりひとつの道標になってくれると思うんです。忙しいときは、個人的な写真を撮る解像度がぐっと下がって、全然見えなくなってしまう。でも、ゆとりがあるとき、目がちゃんと見えているときは、車窓も光って見えるしコーヒーも光って見える。
だから忙しくて何も見えなくなってるなと思ったときは、カメラを持って、とにかく歩きます。哲学者の永井玲衣さんが「念入りな散歩」ということをご著書でおっしゃっていて、その言葉がすばらしいなと思って。リハビリのようにカメラを持って、家から半径1キロぐらいを、念入りに念入りに、光が見えるまで歩く。
何にも見えなくて、カメラをただ持ってるだけの時間が1時間以上も続くこともあるんです。
でも、そうしていると、枯れた草がすごい光って見えるような瞬間が必ず来るんですよね。そうやって1枚撮れたら、穴が開いたような感覚になって、どんどん見えてくる。……そういう、「この写真が撮れたなら大丈夫」と自分を信じられる瞬間は、いつだって必ず訪れるんです。
人から見たら単なる「きれいないい感じの写真」かもしれない。でも、人にどう見られるとか、作家性がどうとか、そういうものは考えずに、私がいいと思ったものを撮る──そんな瞬間を見つけられる人生は、とてもいい人生だと思います。
いわゆる写真界みたいなものがあるのだとしたら、私はそこからは随分外れちゃった気もするけど、もういいやと思っています。私がいま撮る写真や言葉たちは、何度も見えなくなって、再び見えたもの。
そんなものたちを大切にしたいし、もしまた見失っても大丈夫だと思える今の人生が、とてもお気に入りだったりするんですよ。







